2008/11/30

ブタがいた教室

2008.11.28

 監督:前田哲
 出演:妻夫木聡と26人の子どもたち

 「そもそも、なぜ学校でブタを飼う必要があるの?」(実話で、テレビでもドキュメント等が放映されたそうですが、知りませんでした)
 PTA会合の場でそんな話しをしたなら、即刻却下されるであろう提案を、クラスの合意として子どもたちは受け入れます。
 その「みんなで決めた」という前提がなければ、この物語は成立しません。
 「みんなで育てて、みんなで食べよう」と提案した教師は、「ブタを体でドーンと感じる」「生き物を育てること」「自分たちの食べ物」についてみんなで考えるつもりが、ブタと子どもたちと一緒に生きることになります。
 それは別れがあることを意味しています。
 この作品の評価されるべき点は、「残飯をあさる」「帰宅した子どもが臭い」「ブタの世話のために学校へ行く」等、周辺部のエピソードを短く処理し、クラス全員で育ててきたブタとの別れ方について、子どもたち全員で思い、悩み、討論する姿を延々ととらえ続けたところにあると思います。
 子どもたちの意見に対して「正しい」「間違い」ではなく、「真剣に考えている姿勢」を受け止めるべきではないかと、ここは演出ではなく子どもたちの懸命な態度にこころ打たれます。
 最後の最後まで、きちんと子どもたちの行動によって収拾を付けさせようとする教育者の姿勢もまたとても大切なことであるし、「自己責任」と「他人への落とし前(失敗や無礼等の後始末)」そして「ブタ(生き物)に対する思い」を、自分たちで決断し、納得していく子どもたちにとって、大きなテーゼとなっていたことが伝わってきます。
 わたしも含め、生き物を育てる等の経験が無いままに「おいしければ手放しでよろこび」「腹が減っては…」と、生きるための燃料としか感じていない大人たちこそが、向き合うべき問題であることに気付かせてくれます。
 子どもを理解するには(大人同士も同じはず)、共に考え、悩むことでしか気持ちは通じないであろうし、教育とはそういう場を提供してそこに一緒に参加することであろうこと(ホント、社会も一緒)、こころに響きました。
 そして、考えて、泣いて、悩みぬいた末に「先生!」と、すがるようなまなざしで頼られたとき、大人たちはその気持ちを受け止めてやる度量を持ち合わせている必要があります。
 わたしの錯覚であれば(期間をおかずに撮影していたならば)きっと最高の褒め言葉になると思われますが、映画の最後で子どもたちが成長しているように見受けられたのは、演出の勝利と言えるのではないでしょうか。
 ラストもきちんと26人全員登場させたのも拍手です(数えちゃいました)。

 熱血学園モノでないだけに(問題は「ブタ」だけ)、発散できる場面(見せ場)の無い役どころながら、ブッキーは落ち着いて好感度をアピールしていました。来年は大河ドラマに期待しています。
 26人の子どもたちに何か賞をあげたいと思うくらい、泣かされました……
 作劇でよく耳にする言葉は、こうでしたっけ?
 「ブタと子どもにはかなわない」。

2008/11/24

櫻の園 ─さくらのその─

2008.11.21

 監督:中原俊
 出演:福田沙紀、寺島咲、杏、はねゆり
   (覚えられそうもないので、出演者のメモとして並べました)

 『櫻の園』(同じ中原俊監督)と言えば、1990年公開(そんな昔になるの?)の、中島ひろ子、白島靖代、つみきみほたちの姿がとても印象に残るもので、ひらたくいってしまうと「女子高の学芸会顚末記」なのですが、「これから女を磨くのよ」というような、開きかけの桜のつぼみのような趣があったと思われる(勝手にね)、春のまどろみのような作品だった印象があります。
 最近テレビで、すっかりしあわせ体型(でしたっけ?)になった中島ひろ子に驚き、まばたきして確認し直したこともあって、今回の映画が気になったようなところがあります。
 18年がたち、主役の3人はいま? と調べてみると、みんな結婚して、中島ひろ子はテレビ・映画で活躍中、白島靖代はプロ野球ヤクルトの土橋と結婚したって?(活動休止中)、つみきみほは舞台中心に活躍中で、皆さん花を咲かせているようです。
 でもさぁ、出来の良かった作品の二番煎じに満足することは少ないんだから、よせばいいのに〜♪(古い?) ねぇ。
 ──助監督の欄に、冨樫森(『ごめん』監督)、篠原哲雄(『深呼吸の必要』監督)の名前がありました。へぇー!

 制作者側は、リメイクではなく「リ・イメージ」として新作に望んだといいますが、再挑戦した意図すら伝わってきませんでした。
 前作では思春期周辺の「反抗心」であったものを、現代向けの「行動力」としたかったであろう気持ちは理解できますが、ゲームじゃないんだから、立ち向かっていく姿勢を示せば、若さがはじけるとでも思ったのだろうか?
 紙で桜吹雪を演出し「もいちど花を咲かせましょう!」と胸を張りたいようですが、彼女たち自身の花が咲きそうに見えてきません。
 ラストの記念撮影のシーンが本作にも登場するのですが、前作には遠く及びません。
 前作はあんなにも素晴らしかったのに… と、消化不良を起こしたので、翌日レンタルで旧作を見直しました。
 次回は「あれから20年」(30年ではキツそうなので)あたりで、中島ひろ子たちの『櫻の園─同窓会』的な展開をみせてもらいたいと、思ったりもします。
 「でも、衣装どうするのよ?」となるのも困るので…… 失礼しました。

2008/11/14

夢のまにまに

2008.11.11

 監督:木村威夫
 出演:長門裕之、有馬稲子、宮沢りえ

 映画美術の重鎮である木村威夫さんが、90歳にして初めてメガホンを取ると聞いて、それを無視できる日本映画ファンはおるまい(I think so.)。
 しかし何がそうさせたのだろうか?
 戦争を経験した映画屋の使命感と言うのか、自分の表現で戦争を語らずに現場を離れることはできなかった、ということではあるまいか。
 社会が病んでいた時代といえる戦時中と、人間が病んでしまう時代といえる現代が、監督自身が最も恨めしく感じていたと思われる「青春時代の喪失感」に焦点を当てて、平行して描かれていきます。
 生き残った人々は、がれきの上でも根を張り成長していく樹木のような生命力を持ってはいるものの、傷ついた樹皮に消えることなく残り続ける「こぶ」のように、かけがえのないものを心からえぐり取られた傷跡を背負って生き続けていくしかない、と言うかのような痛みが伝わってきます。
 語り口は、タイトルのようにとりとめはないものの、主観の定まった散文のようで、とても映画らしい表現と思います。

 映画の美術監督とは、スクリーンに映し出される空間を作る仕事で、ジブリ作品の背景画を描いている男鹿和雄さんのような方、といえば通じるか?
 木村さんの場合は、ちょっと誇張が過ぎていたり、シュールだったりするのが特徴で、何といっても鈴木清順監督と組むと、歌舞伎の舞台セットか? と思うほどかぶいたり(奇抜)しちゃうのですが、もうそこに視線が釘付けで、目が点ですから、一度観たら忘れられなくなってしまいす。
 1972年に日活を辞めてフリーとなってからは、熊井啓、黒木和雄両監督をはじめ、時代を代表する監督の作品を手がけており、ちょうどわたしが映画を観はじめたころと重なり、木村美術を観て育ったと言っても過言ではない気がします。
 お元気でご活躍されますことを!

2008/11/08

その日のまえに

2008.11.6

 監督:大林宣彦
 出演:南原清隆、永作博美

 角川映画+大林宣彦監督作品、そして「A MOVIE」で始まるといえば、昔からのファンは胸騒ぎがしてくるのではないだろうか。
 ご察しの通り「泣ける小説」として評価が高い(らしい)重松清の原作を、大林ファンタジーにしてくれちゃいました。
 オープニングクレジットの脚本の下に「撮影台本」とありました。
 目にした瞬間「やっちまったかな?」と苦笑い。
 この1行でこの作品の感想は伝わったことになってしまいます。
 (これは、撮影現場での思いつきなどで、脚本を無視した大幅な改編を行ってしまったことを意味します。いい方に転べばいいのですが……)
 現場でやりすぎた反省からクレジットを出したのかも知れません……

 原作に引かれて観に来たお客さんは、きっととまどったのではないでしょうか。
 本人と家族が「その日のまえに」抱く不安感を少しでも軽減することは可能なのか?
 そして、残されたものが「その日のあとに」現実を受け入れて生きていく姿から、勇気を分けてもらうために観に来たお客さんに対して(みなさん『おくりびと』を期待している時節でタイミングが悪かった)、「映画はファンタジーです」と言われたのでは、そりゃ怒りますよ。
 それが、角川映画+「A MOVIE」であると言うならば、大林健在の証明とでも言うのか、今後に期待しちゃうのですが……

 宮沢賢治の世界との融合を目指したかったようですが、それはそれで別の機会にゆっくりとやってもらいたいと思うのですが、そんな機会自体が減ってきているのだろうか?
 まだ、70歳ですもん。応援していますよ!

 P.S. この前に『容疑者Xの献身』を観ちゃったのですが、コメントは控えさせていただきました。

2008/10/25

しあわせのかおり

2008.10.23

 監督:三原光尋
 出演:中谷美紀、藤竜也、八千草薫

 金沢の町の片隅で、ほそぼそと中華料理店を営む年老いた中国出身の料理人。その味に魅せられたシングルマザーが弟子入りして、味を受け継いでいくというヒューマンドラマです。
 本作の最大の魅力は、悪意が存在しないこと、と言えるのではないでしょうか。安心して観ることが出来るって大切です。
 一般的に師匠と弟子の関係は「疑似親子」と言えると思いますが、ここでも師匠にとっては娘を、弟子にとってはほのかに恋していた父親を、料理を通して求めていたのかも知れません。
 こころの通い合った師匠と弟子の共同作業には、男女の共同作業ゆえに生まれる色気や恍惚の瞬間が映し出されている、とすら感じられます。
 そこから作り出される料理がおいしくないはずがありません。
 料理が作られていく過程というのは実にスリリングで、観る者の創造力をかき立てることができたなら、もうそれだけで成功です。
 観る側も、食感や味覚に思いをめぐらせることでしあわせを感じられますし、それを求めて観に来ているのですから。
 鉄則通りスープ作りから始まるのですが、それを目にした瞬間から口の中の分泌液が増えるのを自覚してしまいます。
 それが実際口にはいるか否かは別問題ですけれど……

 どアップが多用されていますが、そのサイズで自分をさらけ出す演技の中谷美紀を撮ると、彼女の骨の形が見えてくるような錯覚さえ覚えます。
 ──褒め言葉のつもりなら「魂」くらい言えないのかね。

 個人的な要望ですが、せっかく金沢が舞台なのですからもう少し地元サービスしても良かったのでは、と思ってしまいます。
 ですが『村の写真集』(徳島県)に続き地方都市を舞台にした小品を、企画し撮影した心意気には拍手とエールを送ります。
 あまり見かけない藤竜也が前作に続いて出演していますが、監督とはイイ関係のように見えました。

 とても分かりやすく、そして誰もが同じように楽しめる映画だと思います。

 P.S. 八千草さんが画面に登場するとこちらの表情がゆるむのは、存在感ですよね。それって、わたしだけだろうか?

2008/10/12

石内尋常高等小学校 花は散れども

2008.10.10

 監督:新藤兼人
 出演:柄本明、豊川悦司、大竹しのぶ、六平直政

 「これを作らずに死ねるか!」とでも言うかのような強靱な生命力(これは監督個人の執念)と、戦争に苦しめられた体験者としての責任感(もうこれまでも十分に語ってこられたと思うが)によって生み出されたと思われる本作は、まさしく新藤さんの遺言と受け止めていいのだと思われます。
 ──以前にもそんな感想を持ったことがあったのですが、出来ることならもう一度言わせていただきたいと思っています。

 本作については、もちろん時代背景(戦争の時代)が語られるべきと思いますが、「もはや戦後ではない」という時代には登場人物たちが50代前後であったとしても、奪われたときめきを取り戻しながら過去を軽やかに乗り越えていく、やり直しの「青春映画」と言ってもいいのではと、わたしは思います。
 96歳になっても「精力ギラギラオヤジ」が健在であるところに、敬意を表します(これ賛辞です)。
 脚本・演出共に「マザコン」と揶揄されたことがあったりしても「女好き」をここまで通されれば、誰も文句は言えません。
 ──奥さんの乙羽信子さんが亡くなってからは、大竹しのぶに惚れ込んでいたのでは?

 近作に3本出演している大竹しのぶは、監督の要求と思われる芝居をそれぞれ見事に演じていて、本作のあんばいなんぞは監督も気に入っているのではないだろうか?
 自分の分身にトヨエツを持ってきて、美化したいというわがままくらいは許してあげましょうや。

 最初に監督の名を知ったのは、映画『祭りの準備』(監督:黒木和雄、脚本:中島丈博)のセリフで「シンドウさんちゅう偉いシナリオライターが、自分の身の回りの出来事を書けば誰でも1本は傑作が書けるいうちょった」というものでした。
 新藤さんも原点に戻って、最も大切な体験を書かれたのではないかと思われます。

 観て良かったと思っています。
 ありがとうございました。

2008/10/01

おくりびと

2008.9.26

 監督:滝田洋二郎
 出演:本木雅弘、山崎努

 近ごろはシネコン等のおかげで映画上映館の状況も大きく変わり(大手配給会社からの縛りが解けつつあり)、大手映画会社以外からの資本流入により、日本映画の製作本数も上映機会も増えていて喜ばしいのですが、同時に質の低下を招いていることも事実だと思われます。
 そんな中「きちんとした映画をみせてくれる監督」が頑張ってくれていることが、とてもうれしく思えます。

 テーマ設定が見事だと思います(原作があるそうです)。
 観客層は壮観なほどに高齢層で固められていて、みなさん「こんな納棺師がいてくれるなら、いつ死んでも安心」などと思われているのでは? というか、変な話し「あの人にお棺に入れて欲しい」などといった「カリスマ納棺師」なんて登場するかも知れません。
 遺言はできても予約はちょっと無理ですよね……
 それはいくら何でも、と思われるかも知れませんが、不安なことが多すぎる時代であることは確かですから、ひとつでも多くの安心できるビジョンを持ちたいと考える人がいることも理解できる気がします。
 死後も燃やされるまでは誰のモノでもない自分の肉体ですから、可能な限り丁寧に扱ってもらいたいと思う気持ちは、とても良く理解できます。
 そのような「その気持ちとてもよく分かる」という身近なテーマの設定が見事だと思いますし、それを丁寧に描いている本作ですから、観る人の心に響くであろうことも、とても納得できます。
 納棺手順の「様式化」にこだわったと思われる演出は実に見事で、「日本人はああいうかしこまった様式には弱いんだよね」と、当事者だったとしたら、わたしもきっと深々とお礼をするであろう民族であること、わたしはとても誇りに思います。
 わたしも、不安を持って逝きたいとは思いませんが、それはかなうことなのだろうか……

 モッくんは、押さえに押さえた演技で「天職」に導かれていく心情を表現し、観る者うなずかせてくれます。
 今年の演技賞はもちろん、これまでで一番良かったのではないだろうか。
 山崎努が「いい人」に見えてくるのは、演出ではなく演技者からにじみ出てくる人間性であると思います。
 広末涼子はいつまで猫なで声でしゃべっているのだろうか。

 久石譲のサントラ盤はダウンロード等では手に入らないので(ネット販売はあるが)、久しぶりにCD店を探し回って買いました。

2008/08/17

きみの友だち

2008.8.14

 監督:廣木隆一
 出演:石橋杏奈、北浦愛

 友だち付き合いを問題なくこなせる少年少女などはいるはずもなく、みんな悩み、もがき、ぎこちない会話などから相手を理解する糸口をたぐりはじめるのではあるまいか。
 そのありようは十人十色、人の数だけ多様であると思われるが、そのどれもがとても慈しむべき大切な「心のありよう」であることは間違いない。
 本作には、関連を持つ複数の登場人物たちが「個」から「和」を築く時の、痛みを伴いながらもまぶしいエピソードを生みだす「心の葛藤」の数々が集められている。
 それはあまりにも不器用で振り返った時に、自分でも恥ずかしく思えるかも知れないが、輝かしい苦闘の成果であり無駄なものなどはなく、みな大切にすべき「心の痛み」であると思える。
 そんなさまざまなエピソードが、運動場の観覧席を舞台の踊り場として、人物とその心の機微が交錯し苦悩が織りなされる「思春期群像劇」としてまとめあげられている。
 しかし、登場人物が持つそれぞれテーマについての感銘は確かに受けるのだが、普遍性については少し疑問が感じられた。
 それはおそらく、原作にはもっと多くのエピソードがつづられているものから映画化に際して絞り込んだ結果ではないかと思われる。
 より広く深い共感を味わいたいと、原作を読んでみたい気持ちにさせられ本屋に立ち寄った。「友だち」を作るための、ひいては現代を生きる少年少女たちの苦悩をひとつでも多くこころに響かせたいとの思いからだと思う。
 タイプは違うと思うが、昨年公開の『バッテリー』に続き、少年少女を題材としたいい作品に出会えてうれしいというか、時代ごとにこの手の作品が必要であることを、思い知らされた。
 友だち付き合いがうまくできない少年少女たちの「何で友だちが必要なの?」の疑問に対する提案として、先輩の立場から常に示していくべきテーマではないだろうか。
 可能性とは、そんな積み重ねがあってようやく見いだせるものかも知れない。

 監督の廣木隆一は『800 TWO LAP RUNNERS』と本作で足の不自由な少女を、『機関車先生』では話すことができない男性教諭を描いているが、障害がある者からこそ純粋さが語られる、との主張なのだろうか。

2008/08/02

百万円と苦虫女

2008.8.1

 監督:タナダユキ
 出演:蒼井優、森山未來

 蒼井優という人は自然体で百面相を見せてくれる女性、とは言い過ぎだろうか?
 演出の意図も感じられない(これは演出者に対する苦言)優ちゃんのアップが多用されているが、湯船から顔だけがポカンと出ているだけの場面であっても、すべて違った表情に感じられ異なる空気を作ることができる存在感はスゴイものだと感心させられます。
 ──1〜2年前に感じた30代女優(だよね?)の開き直りと言ったら失礼ですが、松嶋菜々子や竹内結子がさらけ出すことで響いてくるような「素の顔」や飾りっ気の無さを、この年(22歳?)で見せつけてしまっては、この先どうなっていくのだろう……

 作品としては、どうも意図したユーモアも伝わって来ないので困るのですが、地方の山村の人たちが「癒されるとか言ってのぞきに来るだけで、都会の人間は何も助けてくれない」と、都会人への不満をぶちまける場面と、いじめにあった弟がくじけず立ち向かっていこうとするところ、くらいだろうか。
 ──カメラに背を向けた三つの背中が山の手前に並んだ「絶対に絵になるショット」のはずが、力が足りないと感じたのはなぜなのか考えてみたのですが、男性の描き方の弱さかなぁ? ピエール瀧という人は存在感出せると思うのですが、生かされているように見えませんでした。

 まあ、蒼井優という女優を観ることが目的だったんですから、良しとしますか。

2008/07/28

崖の上のポニョ

2008.7.25

 監督:宮崎駿
 声の出演:山口智子、所ジョージ

 テーマや目指すところは素晴らしいと思うのですが、あまりにも省略され過ぎているような印象を全編から受けました(上映時間の長さ的にはベストと思います。最近の映画は長すぎです!)。
 ポニョの家出の動機、フジモトが海に身を投じ古代魚再生を目指す理由、海(地球)のバランスと月との関係、そして根源となる「宗介大好き!」に至る心の動き等々……。
 また、登場人物の造形もこれまでの作品からの借り物(ポニョ:『となりのトトロ』メイ、リサ:『魔女の宅急便』おソノさん、おばあさんたちもそれぞれ…等々)ではないか、とすら感じてしまいます。
 宮崎さんは本作を集大成と考えていたのだろうか?
 だとしたら、これで「おしまい」にはできないんじゃないの!? という意地悪(?)なエールを送りたいと思います。

 瀬戸内海の鞆の浦(とものうら)で合宿をした成果は、舞台背景に見事に取り入れられており「あぁ、また行きたいなぁ!」との旅情をそそられたのは確かです。
 浦島太郎や人魚姫(日本にはない?)などの伝説がありそうな瀬戸内ではあるのですが、あの地域で起きた出来事が地球規模の異変を引き起こすほど大きなものにならんだろうなどと考えてしまい(瀬戸内海も広いのですが)、どうも鞆の浦という土地とダブらせて観てしまったせいで、他の人の見方とは違ってしまったかも知れません……
 鞆の浦近くに「阿伏兎(あぶと)観音」という崖の上に奉られたお堂があります(車では行けません)。
 個人的には、ここが崖の上の家のイメージなのではないか、と勝手に思っています。

 「ポーニョ、ポーニョ、ポニョ……」の主題歌が、何だか「メタボおやじと、中年おばちゃんのテーマソング」のように扱われる風潮にあらがえず、思い出し笑いをしてしまうわたしは、もう海底を覆うヘドロのような存在かも知れません……

2008/07/23

歩いても 歩いても

2008.7.18

 監督:是枝裕和
 出演:阿部寛、夏川結衣、YOU、樹木希林、原田芳雄

 亡き息子の命日、実家に集う家族たちをもてなすため、台所での下ごしらえの手際がつづられる絵に、家を取り仕切ってきた母の声(樹木希林)と、現代風な中年主婦で割り切りを心得た娘(YOU)の会話がけたたましく続いていく。
 久しぶりと思われる母娘の会話は、本来ならば心情の交歓などが多少はあってもしかるべきと思うところだが、この会話にはまるで接点が無く、それぞれが自己の思惑を語っているところに、とてもリアルさが感じられる。
 外野からは、そんな会話でよく事が運ぶものだと思えるのだが、当人たちにすれば「そんなことお互い分かっていることでしょ!」と「ツー・カー」でいるつもりになっている。
 家族なのだからお互いのことを「よく知っている」のは当たり前であっても、それぞれがどんな思いを胸に秘めている(考えている)のかは、いくら家族であっても知り得ないというのが「家族の実態」なのではないか? と問いかけられているような気がしてくる。
 好意的に理解しようとしていた家族から、想像もしなかったある種残酷な本音を聞かされ、拒絶反応を示しとまどいながらも、共に食卓を囲んで食事をするのが「家族の実態」ではあるまいかと。
 それは単なる食「欲」であるのかも知れないが、現代ではそれをも拒絶しようとする「家族の実態」もあると耳にする。
 ──食事でしか家族はひとつになれないのではあるまいか? それは、小津さんの映画にまでさかのぼることになるが、すでにそこには「真理」が語られていたことに改めて気付かされる。

 乳幼児のころから世話をしてくれた親に対して「何も分かっちゃいないじゃないか!」の意識が芽生えてもそれは当然である。
 「昔からずっと成長を見てきた」親であっても、それ以上のことを「他人(自己でないという意味)」に求めることはできないのではないだろうか。
 親からしても、自分の期待を押しつけることができないように……
 家族という血縁等のつながりがあるとはいえ、それぞれが独立した「自己」を持つ存在の集団なのだから、各人の意識無くしてまとまりなどは望めないものなのではないか? という問いかけのようにも感じられる。
 「理解し合えているというのは妄想である。しかし、互いを尊重しあえることで家族は成立する」とでも言うかのように……

 「歩いても 歩いても」近づくことができない家族ではあるけれど、離れることもできない存在なのではないか。
 ということが、テーマであると同時に願望なのではないか、という気がした。


 タイトルが「ブルーライトヨコハマ 」からきているとはちょっと意表を突かれました。
 ──歌詞を調べて納得したがるなど、なんてまじめな観客なんだろう……

 是枝監督からはどちらかというと静かな画面を想起するが、YOUのけたたましいセリフのリズム感というものが騒音にならないと言うか気にならないのは、きっと相性の良さなのだと思わされた。

2008/06/10

築地魚河岸三代目

2008.6.9

 監督:松原信吾
 出演:大沢たかお、田中麗奈、伊東四朗

 新しい人情喜劇の誕生です!
 江戸っ子という「東京遺産」が闊歩してイヤミにならない場所が、築地という東京の台所にありました。
 また、その切り口が「味」(美味追求)であると思われるところが、今後の広がりを予感させる奥深さを秘めた隠し味となっています。

 大沢たかおクンの明るい表情を久しぶりに観た気がしていますが、もっとハチャメチャにはじけていいんじゃないか、と期待しています。
 魚河岸仲卸の娘が、ネコ科(ゲゲゲの鬼太郎の猫娘役で吹っ切れたのでは?)の田中麗奈というのはちょっと疑問を感じるところですが、一所懸命やってる姿には好感が持てました──彼女の顔を観ながらボロボロ涙を流したとは驚きです……(これは褒め言葉です)
 題材のおかげか、撮影現場にとても活気があるのだと思われ、出演者の表情がみんなイキイキしているように見え、生きのいい作品であるとの好感を持てました。
 それはまさしく監督の力なのだと思いますが、細かいエピソードにもキチッと気を配っていて(オープンのロケと思われる部外者の写り込みまで好感が持てました)、久しぶりの松竹映画らしいいい作品ではないでしょうか(迷作『なんとなく、クリスタル』の監督だとは驚き)。
 とても楽しめました。

 『寅さん』や、『釣りバカ日誌』もいいのですが、若い主人公のシリーズ化が決まったことはとても素晴らしいことですし、主役の二人は次回作からもっとはじけてくれるんではないかと、もう既に期待が膨らんでおります。

2008/06/01

山のあなた 德市の恋

2008.5.29

 監督:石井克人
 出演:草なぎ剛、マイコ、堤真一

 清水宏監督『按摩と女』(1938年)のリメイクだそうですが、本作は間の悪さ、行間情景のスカスカさがどうにも埋められず、演出の力不足を考慮して脚本の変更をすべきだったのではないかと思ってしまいます(脚本・演出もオリジナルを踏襲しようという意図だったように感じられます)。
 ──堤真一が生きていませんもの。
 そんな中でも特筆すべきはマイコの存在で、小津さんの映画を観ているのでは? と錯覚するような、戦前昭和の空気を醸し出してくれる落ち着いた雰囲気を持ち合わせていました。
 鼻はちょっと高すぎるけれど、和服と走る姿が絵になる女性で、この女性は女優をやった方がいいんじゃないか? とも思えました。
 ──原節子さんも、最初は身体の大きさや顔の作りにとまどいを感じられた方も多かったと思われます。

 出来としては「草なぎクンの主演作だから」の感想で伝わってしまう、と言ったら失礼ですが、そう言い切れてしまうのは演出の力不足であり、絵が安っぽく見えたのはプロデューサーの責任に思われます。

2008/05/30

砂時計

2008.5.2

 監督:佐藤信介
 出演:夏帆、松下奈緒

 本作を観ようと思った動機は、昨夏公開の『天然コケッコー』を観に行った京都のミニシアターが2度満員であきらめたものの、いい評価を受けていた印象があるので、夏帆ちゃんがどんなもんなのか観たい気持ちで足を運んだのですが、首をかしげてしまいました。
 物語のテーマと思われる、砂時計が新たな時を刻み始めるとき「過去が未来になる」はずのものが、「未来が過去の繰り返しになる」面ばかりが印象に残ってしまい、何で彼女を使うのか理解できない松下奈緒に「まかせといて!」と言われても、砂時計が明るい未来を刻み始めるとはどうしても思えませんでした。
 原作が少女漫画だからいけないとは言いませんが、一生懸命生きているはずの男性たちの苦悩が伝わってきません。
 そして主題とされる砂時計を壊してしまうという扱いはいかがなものか、と思ってしまいます。
 ガラスの器の中に砂が入っているわけですから、それを割ってしまってはもう二度と元には戻りません。
 壊れたものは仕方ないから、これから「新しい時を刻もう」と違う砂時計を買ってくる訳ですよね?
 その時、女の性は「ここから再スタート」と切り替えるのかも知れません。
 で、その時男の性は「納得しているんだから、まあいいか」と、その区切りを女の性に委ねてしまいます。
 それが描きたかったこと、と理解していいのだろうか?
 これはわたしの勝手な感想なんですがね……


『天然コケッコー』
 前述の作品に納得がいかずに、DVDを借りて観ました。しかし……
 2作品とも、舞台設定が島根県である必然性が感じられなかったのですが、何でそんな作品を作ったんだろうか。
 『砂時計』は仁摩にある大きな砂時計の存在であり、『コケッコー』ではとて物腰の柔らかな島根の女言葉(浜田の宿のおばあさんの言葉を思い起こしました)でしかないのでは?
 それだけならば、どちらの作品も東京と対比のできる田舎町であればどこでもいいことになってしまうのでは、と思ってしまいます。
 そして夏帆ちゃんにガッカリです。
 『砂時計』では、表情もできてなければ、セリフもまともにしゃべれないと散々だったので『コケッコー』に期待したのですが、かろうじて「天然」の部分だけが人物設定にはまっていただけで、ちょっとこの先難しいかも知れないと思わされました。
 TVCMの「リハウス」の頃の方が輝いていた気がします。

 いずれも原作が少女コミックなので、エピソードが多すぎてストーリーを絞りきれないという誘惑に負けたと言うか、上映時間長すぎです!

2008/02/27

母べえ

2008.2.24

 監督:山田洋次
 出演:吉永小百合、坂東三津五郎、浅野忠信

大人の演出の落ち着いた作品になっていたと思います。
山田さんきっと、吉永小百合さんの思うままにやらせたんじゃないか? と思えるほど「母べえ(吉永さん)こそ観てください!」と言っているようにも思えました。
いい悪いは別にして、吉永さんは本当にじっくりと自分の演技をしていたと思います。近ごろでは、演技者が腰を据えて取り組める作品というものは数少なくなってきましたし、高倉健さんも出番がめっきりありませんしね…
てらう演技など「貴女、もうおばさんなんだから作らなくていいのに!」(でも女心は失わない?)ってところまで出させてしまう、見事な演出のさじ加減だと思います。
子役も抜群で登場人物はみんな生きていたし、淡々と「母べえの生きた時代」を描くことで、昭和の時代の叙事詩になり得たと思います。

ラス前の、母べえが書こうとする手紙の内容を語りで聞かせるシーン、エンドロールで聞くことができる父べえの手紙(詩)の朗読が素晴らしいと思えるのは、当時の庶民として「唯一であり、最大の抵抗」はそんな手段しか無かったことを示すと同時に、現代を生きるわれわれに対する質問状であると感じられるからではないだろうか。
「あなたが大切に思うものは何ですか?」と……
文句ありません。素晴らしかった。

タイトルバックに麻の布を敷いた心意気が、そのまま観る者に伝わってきたと思います。
※解説
小津安二郎さんの映画のタイトルバックに多く使われた麻の布(この場合「母べえ」のタイトル文字の背面)を目にした瞬間に「期待しています」と高ぶった気持ちを、小津さん同様の家族を題材にした物語で素晴らしい映画を見せてくれた。ブラボー!
という意味になります。

2008/02/13

陰日向に咲く

2008.2.11

 監督:平川雄一朗(知らな〜い!)
 出演:岡田准一、宮崎あおい

 出だしこそ「おっ、群像劇が始まるな」とのワクワク感があったのですが、どうももたついている感じが、原作者の劇団ひとりのギャグのように中途半端な印象を受けてしまい、何度もあくびしていました。(ダラダラ長いんだよねぇ)
 岡田くんって、見ているだけでほのぼのとした気持ちにさせられる気がして、とってもいいキャラクターだと思います。唱って踊るより全然イイ! と思います。
 あおいはもうエース! 大人顔になったし、表情を押さえられるようにもなってきたし、結婚もしたし(?)、「篤姫」なんかとっても可愛いし(あれはちとやり過ぎと思うが、すごくいい経験をしていると思う)、22歳でエースとはダルビッシュみたいなもんだね。

以上。


P.S. 映画監督の市川崑が亡くなられました(2/13)。ご冥福をお祈りいたします。「ありがとうございました!」
これからテレビで回顧放映があるかと思いますが、どれもいいのですが『黒い十人の女』をやっていたらチェックしてみてください。「黒い女」たちがカッコイイですから! あと『おとうと』『細雪』などなど……
わたしも、回顧します。
合掌。

2008/01/30

椿三十郎

2008.1.20

 監督:森田芳光
 出演:織田裕二、豊川悦司

 楽しゅうございました。
 決してイヤミではございません。
 しかし、ワクワク感が足りなかったのは演出のせい?──黒澤明が相手では。
 迫力が足りなかったのは織田裕二、豊川悦司のせい?──三船敏郎、仲代達矢が相手では。
 説教臭く感じなかったのは、わたしの歳のせい?──演出のセリフ指導だろうなぁ。

 作り手も、観る側も及第点以上の満足感が得られたことと思います。
 でも、どうせ観るなら昔の作品を! と思ってしまうのも仕方ないことと思われます。
 ならば、目指すところは「新鮮さ」であると思うのですが「織田裕二が時代劇をやる!」ところに何か目新しさ・型破りなモノがないと、なかなか状況は打ち破れないと思います。

 織田裕二の背が大きく見えなかったのは、演出? 実力?
 三船敏郎は大きく見えたものなぁ〜!
 だからぁ〜、はじめっから比較の対象に挑もうすること自体、無理があるんだってば!

 P.S. 最近、トヨエツが輝きを失っているように思うのですが(普通のオッサン顔)、どうしたのだろうか。

2008/01/24

ALWAYS 続・三丁目の夕日

2008.1.12

 監督:山崎貴
 出演:吉岡秀隆、堤真一、薬師丸ひろ子

 やっと観てきました。
 ゴジラではなく、鈴木オート(堤真一)の大暴れが見たかったなぁ。
 何だかラーメン屋の「全部盛り」(トッピングを全部入れる)みたいで、盛りだくさんな印象が強く、もう少し一品ずつ味わいたいという贅沢な気分にさせられました。
 預けられた美加ちゃんのエピソードだけで、一話分の物語に広がると思えましたから。
 と言うのも、シリーズ化して欲しいと思うからです。寅さんの子役だった満男が、今度は主役になって映画のシリーズが始まったらうれしいじゃないですか! それも人情喜劇。楽しみにしてるんだけどなぁー。
 そこに薬師丸ひろ子がレギュラーだったりしたら、昔では想像すらできなかった事態に……
 いや、年下の彼女には失礼なのですが「あんな母親だったら一平のようにデレデレと甘えられたのになぁ」(バカなことを言ってますが、これ結構男性心理の真理! じゃないかと思います)と、彼女の母親的な目線と笑い方にデレッとしてしまいました。
 そういう感覚っておそらく高峰秀子さん以来のような気がしています(『二十四の瞳』とまでは言えませんが)。

 本作からはドンドン離れていきますが、ちょうどその頃テレビで最近の『バブルへGO!!』をやっていて、薬師丸ひろ子が観たくて録画しました。
 その映画の中でも「おかあさん似合ってる」と思っていた女性が、ショートヘアになった途端に「あの、昔の薬師丸ひろ子」に変身してしまうのですから「役者よのー」(こっちの方がもっと古い?)と、感心しきりでした。
 高峰秀子さんの時代とはタイプは異なりますが、「女優は化け物だ」とのインパクトを与えながら楽しませてくれる役者になったんだ、と拍手を送りくなりました。

 ついでにいいですか?
 ついでと言っては失礼なのが、正月に録画した『魚影の群れ』です。
 多分、映画館で一度しか観てないと思うのですが、自転車で坂道を下るたびに本作の夏目雅子のシーンを想起して「アー!」と心で叫ぶほど、強く残っていました。
 当時も彼女が良かったとの印象が残っていたのですが、これほど「熟している」(役者として)とは思ってませんでした。
 監督(相米慎二)が執拗に夏目雅子の尻を狙っているのが分かるのですが、それを堂々とケツで演技しきって見せる彼女の器に圧倒されました。
 本作が最後の出演作だったそうです(当時25ですって)。
 わたし自身が「人生を振り返る季節」に差しかかってきたのかも知れませんが、どうもここ数年ことあるごとに夏目雅子を思い出して、再度認識を高めようとしております。(昔はハッキリ言って、意識していませんでした)
 ──確かに現在、彼女のような女優さんが不在であることは確かなのですが……

 薬師丸ひろ子も相米慎二に若いころに鍛えられたと考えると(『翔んだカップル』『セーラー服と機関銃』)、師も弟も不在ということなのだろうか?