2009/01/21

禅 ZEN

2009.1.15

 監督:高橋伴明
 出演:中村勘太郎、内田有紀

 冒頭での、死にゆく母がまだ幼い道元に向かって問いかけた「死後にたどり着ける浄土ではなく、この世で生きている間に、苦しみから人々を救う道はないのか」の言葉に表されているように、道元の求めた禅という教えは実に簡潔明瞭で分かりやすい。
 道元が日本に広めた曹洞宗では、只管打坐(しかんたざ)=ひたすら坐禅することにより、自己と大宇宙の物心一如、心身一体のあるがままのあり方とされる「即心是仏」(心に仏が宿る)に至ることが目的であると説きます。
 「世の中には多くの誘惑が存在すること」「奇跡はあり得ないこと」「目に見えるものを現実として受け入れること」等と対峙(たいじ)する勇気を持ち、自己と世界を超越することで万象のあり様を知ることができるとし、そこには、死への恐怖や、生きる苦しみが存在しない「仏性」が宿るはずである、と。
 ──それならば、死後ではなく生のある間に可能であるように思えます。

 「無の表情」や「言葉のない会話」(これでは伝わりませんよね。「無(迷いの無い)心」を読み取るコミュニケーションです。説明するための表現とすれば、テレパシーのようなもの? です)等は見事に響いてきましたし、「坐禅の姿」にも美しさが感じられ、その姿にこそ仏が宿っている、といわれても疑問を感じることなく、こころのやすらぎを見てとることができました。

 経典や、仏像が存在しないところが「修行を唱える教え」らしいあり方のように感じられましたし、道元自身も、はるばる宋まで行って、印可(いんか:お墨付き)だけをいただき、手ぶら(仏具などのありがたそうな具象物を持たず)を納得して日本に帰ってくるという精神性にこそ、信頼できるものがあるようにも感じられます。
 ──禅宗という宗派は存在しないのだそうですが、同じく禅を唱える臨済宗も当然のように「ご本尊は決まっていない」のだそうです(あらゆる事象を対象とするため)。曹洞宗との違いとして臨済宗には、公案(こうあん)という「禅問答」と言われる悟りを開くための課題が与えられ、クリアした者は階級が上がるという階級社会的な決めごとがあったそうです(だから政府にもてはやされた)。

 なるほど、都にこだわろうとしない道元の姿勢がとても理解でき、地方都市の庶民たちに広まった理由が良く理解できた気がしました。

 昭和の異端児的な印象すらある高橋伴明監督(関根恵子の旦那)が、道元の映画を撮るなんて想像すら出来ませんでした。
 おそらく、彼の心がやすらぐきっかけがあったのでしょう。華道家の生まれで、現在京都にある大学の教授だなんて、驚き……

 まるで映画の感想になっていませんが、宗教家が主人公となる物語の映像化は難しいだろう、という印象が変わることはありませんでした。
 以上。