2009/09/26

プール

2009.9.24

 監督・脚本:大森美香
 出演:小林聡美、加瀬亮、もたいまさこ

 本作の舞台はタイのチェンマイになり、とてものんびりとした風景の中で物語が描かれていきます。
 はじめての海外旅行の地で、もたいまさこさんが「こんにちは」とお辞儀してくれたら、もうそれだけでなごんでしてしまう、導入部の場面があります。

 娘を捨てて家を出ていった母親(小林聡美)が暮らすタイの地を、初めての海外旅行で訪問する娘(伽奈)との母子関係が、自然に囲まれたプールのあるゲストハウスにおいて修復されていく、という話しになります。
 そのゲストハウスには、親のいない存在(男の子、ネコ、犬、牛等)が身を寄せており、親なし子の面倒を見る独身男(加瀬亮)は、「母親に会いたい」男の子の願望をかなえようと奔走します。

 そんな仲間が、肩を寄せながら暮らしていきましょう、という話しであるならば、まったりと観終えることができるのですが、母親が、娘の養育を放棄したことを認めるばかりか、自己主張として娘に向かって語り始めます。
 子どもを生んでも、「母親だから」という理由で、子どもに縛られる義務は無いんだ、との主張と受け止められました。
 終幕において、母親の求めているものや、女性としての強さについて、娘は理解できたであろうことは、伝わってきた気がします。
 しかし百歩譲って、子どもを見捨てることで母親が自由になれることを認めたとしても、親のいない存在はこのゲストハウスのような、善人に引き取ってもらえばいいとするならば、ちょっと理解ができません。
 親が子どもを育ててさえいれば(特別な事だとは思えません)、親のいない存在が寄り集まる場所などは必要ないのですから……
 そんな、世間の「親はちゃんとしているのが当たり前」という認識に対する反論というか異議なのだろうか?
 訴えたいとする意志のあることは理解できるのですが、その内容についてはちょっと理解できませんでした。
 ──ダメな親もいるのよ、というニュアンスだとしたら弱すぎると思います。また、物語には父性も欠落しています。父親や男性に対する批評であるならば、もっと別な訴え方があるかと思われます。

 親のいない男の子は「ビー」という名前で、『ホノカアボーイ』の倍賞千恵子さんの役名(みつばち)と同じです。
 ここでは「みなしごハッチ」の意味とされるのか? とは、勝手な想像のしすぎでしょうし、タイでは意味が違うかも知れません……

 「靴を脱いでね」という、素足の文化になじんでいくことで、足元を見つめ直すような物語であって欲しかった気がします。

2009/09/22

ポー川のひかり

2009.9.15

 監督・脚本:エルマンノ・オルミ
 出演:ラズ・デガン、ルーナ・ベンダンディ

 本作はイタリア映画で、新約聖書にまつわる現代の寓話になります。

 ボローニャ大学の図書館で、聖書が100本の釘によって磔刑(たっけい:はりつけ)のように、床や机に打ちつけられる事件が発生し、哲学科教授の手によるものと判明しますが、本作はその動機の背景についての物語になります(原題はCentochiodi:100本の釘)。
 いきなりネタばらしのようですが、そんなことでこの作品は揺るぎません。
 ──ヨーロッパ最古の総合大学とされるボローニャ大学には、ダンテ(叙事詩『神曲』 1321年没)、コペルニクス(地動説 1543年没)、ガリレオ(「それでも地球は動いている」 1642年没)が在籍し、ウンベルト・エーコ(『薔薇の名前』の原作者)が教鞭をとったそうです。

 上述の反宗教的とも思われる行為は、聖書やキリスト教の教義に対する抗議ではなく、権力集団と化してしまった教会や学会的な知識人組織に対する、原点回帰を訴えるための一矢であると思われます。

 哲学教授は自己再生のために、すべてを捨て去りポー川の河辺にある廃虚で暮らし始め、河畔を不法占拠しながら生活するコミュニティの人々に求められ、「自分の言葉」として聖書の教えを語るようになります。
 そこで住民たちに「キリストさん」と呼ばれるようになることが、重要であると思われます。
 教団の布教活動では重要になると思われる「奇跡」ですが、庶民にとってはそれ以前に、日常生活の「やすらぎ」というものがとても大切なものになってきます。
 本作の「キリストさん」は結局、退去勧告を迫られた河辺の人々には、何も与えられなかったようにも見えますが、そんな彼の帰りを迎えるための道しるべとして灯された明かりは、河辺の人々の希望の光であると受け止められます。

 舞台であるポー川の河辺を、聖地エルサレム(キリストが教義を語り、そして処刑・埋葬・復活したとされる場所)に例えているようにも思われます。
 しかし、その場所だけを特別視する理由の無いことを、「キリストさん」がそこに戻ることなく、川面から立ち去る印象を残し姿を消してしまうことで表現しているように思われます。

 それを「神の不在」ととらえるか、「人類の正念場」ととらえるか、についての作者の提起はありません。
 現代社会は、教義の対立ではなく、宗教組織間の争いによる危機に直面していることを、訴えているのだと思われます。
 冒頭のインド出身の学生との会話に
 学生「わたしは子どものころ、世の中のみんなを救いたいと考えていた」
 教授「子どもはみなそう考えるが、やがて自分を守ることで精一杯になる」
 とありました。
 これは、インドの学生を「仏教」に例えたものと思われ、宗教全般に対しての作者の考え方の表れと思われます。
 もともと、どの宗教も「世の中の人々を救いたいがために始まった祈り」であるはずだと……

 冒頭の「どんな書物も、書物そのものは語らない」というクレジットは、物語の主題とされるキリスト教に対する見解かと思っていましたが、「コーラン」を神格視するイスラム教に対する見解でもあるように思えてきました。

 エルマンノ・オルミ監督の名前を久しぶりに目にして、懐かしさから足を運びました。
 『木靴の樹』(1978年)しか観ていませんが、でも「絶対に裏切られない」と勝手に思い込んでおりました。
 上記の作品は3時間に及ぶ長編で、何度となく睡魔の誘いに屈しましたが、木靴を手にした子どものうれしそうな目だけは良く覚えています。
 これまでも多作でありながら、日本公開は限られていたようです。今後はドキュメンタリーを軸に撮られるそうで、また機会があれば足を運びたいと思っています。

2009/09/14

九月に降る風

2009.9.8

 監督・脚本:トム・リン(林書宇)
 出演:リディアン・ヴォーン(鳳小岳)、チャン・チエ(張捷)、ジェニファー・チュウ(初家晴)

 本作は、台湾の悪ガキ高校生グループの青春群像を描いた物語になります。
 予備知識は皆無の状態で、『風櫃(フンクイ)の少年』(ホウ・シャオシェン:候孝賢 1983年)に通じる雰囲気だけをイメージして足を運びました。

 心の痛さがとても響いてくる台湾の青春映画に引かれるのは、日本占領下(1895年(明治28年)下関条約による台湾の日本割譲〜第二次世界大戦まで)での文化の押しつけが、現在も接点とされる親近感ではなく、東アジアの島国という環境・歴史に根付く「島国文化」という共通点を、実感できる面にあると思われます。
 そこには、わたしたちの暮らす国が、これまで行ってきた行為に対する反省から感じる「痛さ」が含まれますし、忘れつつある島国特有の「おおらかさ」を思い出させてくれるような「刺激」が含まれるようにも思われます。
 ──同じ隣国である、韓国、中国には「むき出しの反日感情」が存在することを理解しているので、こちらにも一応身構える姿勢が必要になります。しかし、台湾には「好日的」と言える空気があることを感じる度、自らの意志によって「反省すべき」という気持ちがわき上がってきます。それを、島国の連帯感と考えたいと思ったりします。

 本作の舞台は1996年、台湾新竹(IT企業が集まる「台湾のシリコンバレー」と呼ばれる町)で、当時の台湾プロ野球界を揺るがせた八百長事件を背景にして描かれます。
 劇中に登場する元プロ野球選手で、八百長事件で追放される廖敏雄(リャオ・ミンシュン 本人が登場)は現在、高校野球の監督として野球に情熱を注いでいるそうです。
 九月は台湾の新学期にあたります。
 高校卒業の時にしか感じることのできない、社会に踏み出す者への洗礼のように降る「新しい風」と、ダーティーとされながらも心の中で生き続けているヒーローに、スカッとホームランされることにより、主人公は後押しを受けます。道を踏み外した者にも、夢を追い続けることは可能であると……
 痛みを知った者同士が、尻をたたき合いながら再スタートする姿を、見守ろうとするおおらかな視線のあることが、観る者にも救いと感じられるのではないでしょうか。

 露出が増えれば日本でも人気が出そうな、ジェニファー・チュウちゃんをヒロインに起用するあたりは、現代台湾映画の戦略傾向なのかも知れません。
 以前の『恋恋風塵』等では、イモ姉ちゃん(大変失礼! シン・シューフェンの大ファンでした)たちの素朴さを、しみじみかみしめたものでした……
 そんな思いもよみがえってきたのですから、本作を観たかいがあったというものです。

 劇中に『恋恋風塵(れんれんふうじん)』(ホウ・シャオシェン 1987年)の映像が使われていて、一気にタイムスリップした気分にさせられ、『悲情城市』(ホウ・シャオシェン 1989年)、『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(エドワード・ヤン:楊徳昌 1991年)の世界がよみがえってきました。
 確かに描かれる時代背景は違うのですが、伝わってくる「痛み」の空気感というか、映画の肌触りから感じられる台湾らしさというものは、変わっていないように思われました。