2012/03/18

ALWAYS 三丁目の夕日 '64

2012.2.25

 監督・脚本:山崎貴
 脚本:古沢良太 、山崎貴
 出演:吉岡秀隆、堤真一、堀北真希、薬師丸ひろ子

 注目を集めての第3作も、期待を裏切らない娯楽作として「大いに笑い」「大いに泣ける」作品で、舞台設定の1964年からは時代背景と共に、当時の風潮であった「単純明快で楽しく、日ごろの憂さを晴らせる映画」の精神が受け継がれている。
 本作の取り組みには、今後の娯楽映画も原点を見直すことから、現代の新しい娯楽映画が生まれるはず、との提言にも受け止められる。

 映画館内には活気や満足感が満ちており、製作期間が2011年の大地震後まで及んだかは不明だが、現在の観客が求める「ツボ」を押さえており、暗いニュースの現実から一瞬でも逃れたい老若男女を、手招きして受け入れてくれる「夢空間」に感じられた(それが本来映画が持つ存在意義のひとつ)。
 64年当時を知る方たちは、現状の閉塞感打開のためには原点を見直すことが必要であると、再スタートのヒントを見いだせたのではあるまいか?
 日本という国や国民が元気で、みんなが「上を向いて」いたころの「希望」を再確認し、これからの「勇気」をひねり出そうとする現在にこれ以上なくマッチした題材への満足感から、観客は勇気を抱き帰途についたであろう。

 本シリーズには「悪意」は存在しないため、出演者側は気持ちよく演じられ、観る側も多くが不快感無く観賞できたのではないか。
 作品の出来ではなく、現在渇望される「娯楽作品」であったことが、本作およびシリーズの成功理由と言える。

 時代背景に付いていけなくても、堀北真希ちゃんの「旬」(いまこそ、と思う)のかわいらしさは感じられたのではないか。
 普段からおっとりした印象の彼女が、青森弁を話すことで生まれる空気感が彼女の魅力を増幅し、3作目でイメージが定着しているとはいえ、彼女の活動の中でも「はまり役」として記憶されるであろう。

 また、冒頭では前作から5年の間に成長した若者たちを判別できず「役者を変えたのか?」とすら思ったが、一平と淳之介が以前の彼らであることに気付き「そうあるべき」とともに、淳之介役に須賀健太を選んだことに「役者を見る目を持っている」と感心させられた。
 彼は以前から思いを内に秘める役柄をこなしてきたが、本作の思いを打ち明けるまでの「ため」の演技の凄みには驚いたし、ここまでの演技ができる子役として1作目に彼を選んだとしたら、その目は見事だったと言うしかない(成長していることは確かだが)。

 前作で、冷蔵庫の普及から仕事を失いそうな「氷屋」が、自動販売機の前で見張る姿は、当時は販売機にいたずらする者や、たたいたり、け飛ばすと、商品がゴロゴロ出てきた(直接的表現では広告主は嫌がるし、それを利用した)表現のようで、キャラクターも生かすうまい表現法である(悪意はなくとも=出てこなかったりした、身に覚えがあるので大爆笑!)。

 このシリーズは、本作で終了と耳にした。
 こんなにも幅広い客層の支持を受ける作品は「寅さん」以来で、まだ復興には時間がかかるため観客から続編を望む声があがるのではないか。
 創作活動ではあるも商業活動であると考え、「復興支援」として続けて欲しいと願う気持ちは確かにある。

 将来「この映画から勇気をもらった!」と、エポックとされるような映画になるかも知れない……

しあわせのパン

2012.2.12

 監督・脚本:三島有紀子
 出演:原田知世、大泉洋

 「映画女優」の定義を議論するつもりはないが、原田知世という人は映画デビューで注目され、そのまま映画界のアイドルとなった。
 映画界で育つことで「スクリーンを支える力」を身に付けたことから、「映画女優」との認識があり(次の世代は宮崎あおい、蒼井優か?)、久しぶりの主演作に足を運んだ。

 しかし演出は、冒頭に盛り込んだ絵本のエピソードで「これはおとぎ話」と宣言するも、観る者を「おとぎの世界」にいざなおうとせず、監督の少女趣味的なご都合主義の世界を展開させてしまうため、観客との間に(監督の自己陶酔に入り込めない)大きな溝を生み出してしまう。
 しかも主人公夫婦は、演出側が目指したと思われる「雰囲気を描くこと」(これもおかしな目標だが)の「素材」にもなっておらず、しいていえば役者を「素材感」として北海道の風景にまぶすだけのレシピで終わり? と思うほど人格(現実味)が感じられない。

 本作の製作意図には、「北海道の知られてない面をアピールしたい」とあるので、画面を温めてくれる素材や料理が主役の映画であるはずが、役者は「具」どころか「ダシ」でもない「隠し味」程度にしか見えない。
 映画の具となる「ジャガイモ」や「ニンジン」はどこにあったのかも分からなければ、パンを焼く窯は屋外にあり「冬はどうするの?」も描かれない。

 本作でも「スクリーンを支える力」を見せてくれる原田知世を映画女優と感じさせるのは、「腹のくくり方」ではないかと思う。
 絵を造れる存在だから、笑顔がカワイイ、空気感を素材にしたい、などの浮ついた狙いだけで「素材」にして欲しくない思いがある(年取った! は仕方ない)。
 黒木和雄監督(遺作)『紙屋悦子の青春』の、決してうまくないが「こんなにも整った表情ができる女優さんはいない」という印象から、彼女は求められたものはクリアできる力を秘めた女優であると感じたし、NHK連続テレビ小説『おひさま』の主人公母親役では、戦前という時代の「モダンさ」を暖かく演じていた。

 秘められた力を引き出せる人材がいないために、持てる力を発揮できないという構図は一般社会同様と考えると、社会は膨大なパワーの損失とともに、その裏で持てる力とのギャップからストレスを生み出す「生産工場」のように思えてくる。

 薬師丸ひろ子に続いて、コマーシャリズム(売ることが目的の角川商法)の波に乗せられて登場した「映画アイドル」であるが、現在の庶民派的印象の薬師丸と、実生活との距離を感じさせる原田の存在は、当時の印象が逆転したような感もある。

 彼女は自身で作品選択をするにせよ、もっと「有効に」使われるべき「素材」と思えてならない。
 というラブレターとして……