2012/12/03

北のカナリアたち

2012.11.23

 監督:阪本順治
 撮影:木村大作
 脚本:那須真知子
 出演:吉永小百合、森山未來、満島ひかり、勝地涼、宮﨑あおい、小池栄子、松田龍平、柴田恭兵、仲村トオル、里見浩太朗


 本作が目指したであろう「日本映画ここにあり!」の主張が、きっちりと伝わる作品である。
 テーマは「世代間のたすき受け渡し」で、創立60周年の東映は「今後も若い人材を育てていく」覚悟を示そうとしたのであろう。
 その意図は、豪華なスタッフ・キャストを率いる作品演出に指名された、阪本監督の覚悟により結実したように思える。

 推理小説的な物語展開で、同じ場面を各人物の視線からの異なるアングルで見せる絵作りの生かし方(立体視的視点)、出演者が自由に振る舞える舞台を設定し、伸び伸び演じさせようとする阪本演出のメリハリには、現在「日本映画監督のエース:原田芳雄が遺作『大鹿村騒動記』に指名した」の力が感じられる。
 その『大鹿村〜』の演出経験が、取り組みに対する覚悟を変えたのでは? と感じるほど本作には「どっしり」とした存在感がある。
 とても「日本映画らしい作品」であり、記憶に残るであろうインパクトを受けた。

 演出と切り離せない「冬の海」の迫力はとんとごぶさたの感があり、さすが木村大作カメラ(『劔岳 点の記』の監督)と拍手! しかし、後継者は大丈夫なのか?

 こちらも久しぶりの印象がある脚本の那須真知子も、核心部に触れるまでの緊張感の持続は見事で、特に前半は脚本の力にグイグイ引っ張られる印象があり、感心させられた。

 吉永小百合さん(地味な化粧でも引き込まれる67歳!?)は「受け」の演技で輝きを放つが、そこにしたたかさを秘めた本作の人物像は、彼女向けに構築された印象すら感じるほどのはまり役(どうしても出てくる『細雪:1983年』雪子役を超えたとも)。
 若者たちの体格が大きいため、小さく見える姿からにじみ出る年輪に現実味があり、生徒役の現在一線で活躍する若手役者たちが、小者(子ども)のように見えてくる。
 森山未來、満島ひかり、宮﨑あおい、松田龍平らも、吉永さんの前では「変なことはできない」と、観念したように見える対峙場面はどれも見せ場だが、その実を吉永さんが全部総取りしてしまう、貫録の痛快さ!(それがスターの姿で、小者たちには芸の肥やしとなる)。
 演出・脚本たちが結末を秘めながら積み重ねた作業は、観客が期待する吉永さんという存在に収れんし「スターの本領発揮!」の場面にバトンが渡される。
 吉永さんの、教え子を守ろうとする「覚悟」「信念」に接し、先生を注視する教え子たち(=観客)は感銘を受けることになる。

 近ごろの吉永さんに対する演出は、あの人しか持ち得ない「オーラ」を消そうとするばかりだったが、本作演出の「それを何とか写したい」との狙いが成功の要因に思える。

 子どもたちの「心の支え」となる人物として、吉永さんを設定した狙いは成功であり、現代版『二十四の瞳』(本作は十二の瞳)の随所から、木下恵介監督、高峰秀子さんを想起するも、比較して決して引けをとらない出来栄えとなっている。

 健さん同様、背負わされたものに耐えながら道を見いだす人物像を応援したい気持ちは変わらないが、演ずる人が不在となれば、そんな「愛すべき生き様」にこそが日本人の美しさがある、と受け止められる時代が終わってしまうような気がしてならない。
 健さん、吉永さんともに映画に捧げる人生を歩んでくださいますよう。
 われわれは、見届ける義務をまっとうします!

2012/10/03

ライク・サムワン・イン・ラブ

2012.9.28

 監督・脚本:アッバス・キアロスタミ
 出演:奥野匡、高梨臨、加瀬亮

 こんな夢「キアロスタミが日本語で映画を撮ったら?」は実現不可能と想像すらしなかったせいか、実際に接した第一印象は「めんどくせー」に尽きる。
 これまでの彼の映画にも「まどろっこしさ」は付きものだったが、それは言葉や習慣の違いから咀嚼(そしゃく)できないものと、理解を放棄するいい訳としていた。
 しかし本作では、いちいち言葉がつまる理由や、あいまいな態度の裏側まで理解できるため、「うんざりできる満足感(?)」がある。
  これまでの作品でもディテールを積み重ねていたことの裏が取れ、とてつもない労力の上に成り立っていることを、初めて納得できた気がする。

 そんな再認識はつまるところ、監督が人々を見つめる視線に引かれる、自身の嗜好(しこう)を再確認させられたわけで、またも見事に術中にはまった印象がある……

 キアロスタミはこれまでも、決して視線が交わらない舞台装置として、自動車の車内を好んで使用してきた。
 『そして人生はつづく』(1992年)では、地震の被災地を訪ね回る心細さをひとりの絵で、『桜桃の味』(97年)では、自殺の手助けを求める主人公とそれを断る助手席との二人の絵を、『トスカーナの贋作』(2010年)では偽物夫婦の並ぶ絵があった。
 本作では、後部座席にも座らせ三人の視線が交わらない構図を生み出している。それは、これまで以上に複雑な人間関係を表現するためとも見えるが、シンプルに受け止めれば「病的な関係」の表現手段であることに気付かされる。
 構図としては、若い娘を奪い合う老人と青年という図式だが、全員がそれぞれに虚像を演じていたとすれば、末路は明白になってくる。

 「好きではない対象」でも観察してしまう自分(好きではない理由を納得したい)でも、決して人間嫌いにはならないことを気付かせてくれた思いがし、自分の中で彼のライブラリのエポック的存在となる気がする。

2012/09/23

あなたへ

2012.9.16

 監督:降旗康男
 脚本:青島武
 出演:高倉健、田中裕子、佐藤浩市、草なぎ剛、余貴美子、綾瀬はるか、大滝秀治、長塚京三、原田美枝子、浅野忠信、ビートたけし

 近ごろは日本映画を観るたびに、さみしさばかりを感じてしまう。
 映画と出会いのめり込み、四隅まで見逃さぬようかじり付いた銀幕(スクリーン)で活躍された方々もお年を召され、現役でおられる姿を「いとおしむように」拝見をすることが、申し訳ないというか悔しくてならない。
 現に、大滝秀治・高倉健の共演はこの先も観られるだろうか? と思うと、胸が詰まる……

 実に見事すぎる「健さん映画」(「寅さん映画」に通じる理解と同じ)で、「高倉健の背中」に何を、どう背負わせるべきなのかを脚本・演出は承知しているので、物語が進むにつれ「健さんの背中」は観る者の期待通り、寡黙ながらも語り始める。

 キャストの配置と生かし方も見事で、出演者に名前を挙げた方々はもちろん全員素晴らしかったが、特に、若い綾瀬はるかの生かされ方は今後の自信になると思え、浅野忠信は物語を引き締めるポイントを作った印象として残る。

 各所でCGと思われる絵が目についたが、それは故意にむかしの合成風な演出をしたように思えた(CGを使うも「アナログ映画」を作る自負なのか)。
 勝手な想像だが、高倉健主演『八甲田山』(1977年)の撮影を担当した木村大作が、初の監督作品『劒岳 点の記』(2009年)をすべて実写撮影した事へのオマージュではないか? とも思える。
 同作の演出を依頼された降旗監督は健康上の理由から断り、やむなく木村が自らメガホンを取り、高倉健も「もう八甲田山はできない」と語る。
 実写にかなうものはない!(だが、われわれには実写にこだわる体力はない)との表現にも感じられる。

 健さんの映画をあと何本観られるのだろうか?
 劇場の予告編で目にした吉永小百合さんまでが、わたしの中の「銀幕のスタア」でありこの先はどうしたものかと……
 いま思うと、映画へのあこがれは、スタアだったり、才気あふれる先人への憧憬であったことを、この期に及んでようやく理解できた気がする。
 その灯がひとつひとつ消えてしまう近ごろは、わたしの映画への情熱もひとつずつ失われていくように思えてならない……

 「これが職人の造る映画だ!」の自負に敬服するも、ひょっとすると「もうこのような映画は観られなくなるのか?」という、現実が目前に迫っているような絶望感がある。


 追記
 NHKの「高倉健」ドキュメント番組2本を録画して、映画鑑賞後に目にした。
 そこでは「役者 高倉健」としての覚悟が語られているだけに、今後も数多くの作品で出会いたい! と切に望むばかりである……

2012/07/16

グスコーブドリの伝記

2012.7.10

 監督・脚本:杉井ギサブロー
 声の出演:小栗旬、忽那汐里、柄本明

 原作の映画化には読後の解釈〜再構築が重要だが、こと宮沢賢治作品には解釈を限定しない自由な発想が許されるため、他人の中傷から解放された「思いの丈」が表現される楽しみがある。
 それゆえ賢治に対する多くの「解釈」に接したいとの思いから、「宮沢賢治」の名前だけでもアンテナが反応するのだろう。

 宮沢賢治作品を起源とする「ワンダーワールド」には「正しい」「間違い」ではなく、「好き」「嫌い」と反応するはずが、わたしは久しぶりに何度もグッスリ眠る「夢見心地」となった。
 睡魔に襲われる瞬間、以前の『銀河鉄道の夜:1985年(27年前!?)』も同様だったか? の記憶をたどりながら……

 賢治の世界観に身を委ね悦楽を感じる者には、提示された世界を「新しい作品を読む」かのような情報源と感じる瞬間がある(未見だが『銀河鉄道999』にも刺激があったのか?)。
 「踏み台とせよ!」の意志が伝わるからこそ、そこに新たなイマジネーションが生まれ、連鎖の種子となるのであろう。
 「偉人」と思える賢治に身近さを覚えるのは、教師・指導員の経験による「語りかけ」と感じるからかも知れない……

 前作同様「猫」のキャラクターに魅力はあるが、それ以外の造形(キャラクターと演出)に対しては、稚拙・安易すぎる印象を受けた(本作に対する感想はここだけ)。

 タップリ寝たくせに悪い印象が残らないのは、宮沢賢治の世界に浸りながら夢が見られたことによるのだろう。


追記
 ここで書くことではないが、
 「グスコーブドリとはブドリという鳥の仲間で……」
 というジョークが、頭から離れなかった……

2012/05/28

わが母の記

2012.5.27

 監督・脚本:原田眞人
 出演:役所広司、樹木希林、宮崎あおい、南果歩、キムラ緑子、ミムラ

 これだけの役者陣をそろえて取り組む作品であり、普遍的テーマを描こうとする姿勢は伝わるが、舞台が昭和(希望のある)時代であることに「ねたみ」のような感情を覚えるのは、現在を悲観しすぎているか。

 涙はとめどなく流れるも、後に残らない物足りなさがある。
 ネタの羅列はあっても「調和が取れてない」印象からと感じる。

 役所広司が前面に出るのは当然でも、樹木希林と孫たちとの場面(ふれあいの場:宮崎あおいとの描写は説明的過ぎる)が物足りないため、彼女の人格を理解するのは役所だけという構図が、母親の独りよがりに見えてしまう。
 はなから娘たちを相手にしない母親と、長男の母への思いの強さは理解できるところだが……(長男を頼りにする母親像は『歩いても歩いても』2008年:是枝裕和監督作品で演じている)

 原作は読んでないが、原作者(井上靖)の思い入れがとても強いと思われる作品に、監督以下スタッフが従順すぎたのではあるまいか。
 「母が壊れていく」をテーマとしながら、親子・親族間の描き方が感情に頼りすぎた印象があるも、樹木希林が演じるゆえに成立する物語であり、観客が『東京物語』(1953年:小津安二郎監督)を求めるのは間違いなのは分かる。
 しかし本作の失敗は、樹木希林さんに演技要求ができなかったことではないか。
 例えとして正しいか分からないが、映画『八月の狂詩曲』(1991年:黒澤明監督)ラストの足元に及ばぬ、見せ場とならない状況を経ただけで、息子に背負われたくない(と思ったか?)欲求不満そうな表情に見えてしまう。
 彼女が「当たり前:自然すぎる」と感じてしまうのは褒め言葉でなく、演出が彼女から新たな面を引き出すことをせず「○○的な演技で」を要求したからではあるまいか?
 演技賞候補の筆頭には違いないが、それゆえもっと驚かせて欲しいとの思いが残る。

 宮崎あおいは、相変わらず表情の見せ方が上手と感心させられるも、その先を引き出せなかったのは演出の責任。

 南果歩ちゃんとミムラの「梅ちゃん先生」コンビは、役柄をわきまえ光っているので、これから活躍の場が広がるよう応援したい。

 泣かせばいいってもんじゃない映画の典型であり、実にもったいない出来という印象が残る。

2012/03/18

ALWAYS 三丁目の夕日 '64

2012.2.25

 監督・脚本:山崎貴
 脚本:古沢良太 、山崎貴
 出演:吉岡秀隆、堤真一、堀北真希、薬師丸ひろ子

 注目を集めての第3作も、期待を裏切らない娯楽作として「大いに笑い」「大いに泣ける」作品で、舞台設定の1964年からは時代背景と共に、当時の風潮であった「単純明快で楽しく、日ごろの憂さを晴らせる映画」の精神が受け継がれている。
 本作の取り組みには、今後の娯楽映画も原点を見直すことから、現代の新しい娯楽映画が生まれるはず、との提言にも受け止められる。

 映画館内には活気や満足感が満ちており、製作期間が2011年の大地震後まで及んだかは不明だが、現在の観客が求める「ツボ」を押さえており、暗いニュースの現実から一瞬でも逃れたい老若男女を、手招きして受け入れてくれる「夢空間」に感じられた(それが本来映画が持つ存在意義のひとつ)。
 64年当時を知る方たちは、現状の閉塞感打開のためには原点を見直すことが必要であると、再スタートのヒントを見いだせたのではあるまいか?
 日本という国や国民が元気で、みんなが「上を向いて」いたころの「希望」を再確認し、これからの「勇気」をひねり出そうとする現在にこれ以上なくマッチした題材への満足感から、観客は勇気を抱き帰途についたであろう。

 本シリーズには「悪意」は存在しないため、出演者側は気持ちよく演じられ、観る側も多くが不快感無く観賞できたのではないか。
 作品の出来ではなく、現在渇望される「娯楽作品」であったことが、本作およびシリーズの成功理由と言える。

 時代背景に付いていけなくても、堀北真希ちゃんの「旬」(いまこそ、と思う)のかわいらしさは感じられたのではないか。
 普段からおっとりした印象の彼女が、青森弁を話すことで生まれる空気感が彼女の魅力を増幅し、3作目でイメージが定着しているとはいえ、彼女の活動の中でも「はまり役」として記憶されるであろう。

 また、冒頭では前作から5年の間に成長した若者たちを判別できず「役者を変えたのか?」とすら思ったが、一平と淳之介が以前の彼らであることに気付き「そうあるべき」とともに、淳之介役に須賀健太を選んだことに「役者を見る目を持っている」と感心させられた。
 彼は以前から思いを内に秘める役柄をこなしてきたが、本作の思いを打ち明けるまでの「ため」の演技の凄みには驚いたし、ここまでの演技ができる子役として1作目に彼を選んだとしたら、その目は見事だったと言うしかない(成長していることは確かだが)。

 前作で、冷蔵庫の普及から仕事を失いそうな「氷屋」が、自動販売機の前で見張る姿は、当時は販売機にいたずらする者や、たたいたり、け飛ばすと、商品がゴロゴロ出てきた(直接的表現では広告主は嫌がるし、それを利用した)表現のようで、キャラクターも生かすうまい表現法である(悪意はなくとも=出てこなかったりした、身に覚えがあるので大爆笑!)。

 このシリーズは、本作で終了と耳にした。
 こんなにも幅広い客層の支持を受ける作品は「寅さん」以来で、まだ復興には時間がかかるため観客から続編を望む声があがるのではないか。
 創作活動ではあるも商業活動であると考え、「復興支援」として続けて欲しいと願う気持ちは確かにある。

 将来「この映画から勇気をもらった!」と、エポックとされるような映画になるかも知れない……

しあわせのパン

2012.2.12

 監督・脚本:三島有紀子
 出演:原田知世、大泉洋

 「映画女優」の定義を議論するつもりはないが、原田知世という人は映画デビューで注目され、そのまま映画界のアイドルとなった。
 映画界で育つことで「スクリーンを支える力」を身に付けたことから、「映画女優」との認識があり(次の世代は宮崎あおい、蒼井優か?)、久しぶりの主演作に足を運んだ。

 しかし演出は、冒頭に盛り込んだ絵本のエピソードで「これはおとぎ話」と宣言するも、観る者を「おとぎの世界」にいざなおうとせず、監督の少女趣味的なご都合主義の世界を展開させてしまうため、観客との間に(監督の自己陶酔に入り込めない)大きな溝を生み出してしまう。
 しかも主人公夫婦は、演出側が目指したと思われる「雰囲気を描くこと」(これもおかしな目標だが)の「素材」にもなっておらず、しいていえば役者を「素材感」として北海道の風景にまぶすだけのレシピで終わり? と思うほど人格(現実味)が感じられない。

 本作の製作意図には、「北海道の知られてない面をアピールしたい」とあるので、画面を温めてくれる素材や料理が主役の映画であるはずが、役者は「具」どころか「ダシ」でもない「隠し味」程度にしか見えない。
 映画の具となる「ジャガイモ」や「ニンジン」はどこにあったのかも分からなければ、パンを焼く窯は屋外にあり「冬はどうするの?」も描かれない。

 本作でも「スクリーンを支える力」を見せてくれる原田知世を映画女優と感じさせるのは、「腹のくくり方」ではないかと思う。
 絵を造れる存在だから、笑顔がカワイイ、空気感を素材にしたい、などの浮ついた狙いだけで「素材」にして欲しくない思いがある(年取った! は仕方ない)。
 黒木和雄監督(遺作)『紙屋悦子の青春』の、決してうまくないが「こんなにも整った表情ができる女優さんはいない」という印象から、彼女は求められたものはクリアできる力を秘めた女優であると感じたし、NHK連続テレビ小説『おひさま』の主人公母親役では、戦前という時代の「モダンさ」を暖かく演じていた。

 秘められた力を引き出せる人材がいないために、持てる力を発揮できないという構図は一般社会同様と考えると、社会は膨大なパワーの損失とともに、その裏で持てる力とのギャップからストレスを生み出す「生産工場」のように思えてくる。

 薬師丸ひろ子に続いて、コマーシャリズム(売ることが目的の角川商法)の波に乗せられて登場した「映画アイドル」であるが、現在の庶民派的印象の薬師丸と、実生活との距離を感じさせる原田の存在は、当時の印象が逆転したような感もある。

 彼女は自身で作品選択をするにせよ、もっと「有効に」使われるべき「素材」と思えてならない。
 というラブレターとして……