2012.2.12
監督・脚本:三島有紀子
出演:原田知世、大泉洋
「映画女優」の定義を議論するつもりはないが、原田知世という人は映画デビューで注目され、そのまま映画界のアイドルとなった。
映画界で育つことで「スクリーンを支える力」を身に付けたことから、「映画女優」との認識があり(次の世代は宮崎あおい、蒼井優か?)、久しぶりの主演作に足を運んだ。
しかし演出は、冒頭に盛り込んだ絵本のエピソードで「これはおとぎ話」と宣言するも、観る者を「おとぎの世界」にいざなおうとせず、監督の少女趣味的なご都合主義の世界を展開させてしまうため、観客との間に(監督の自己陶酔に入り込めない)大きな溝を生み出してしまう。
しかも主人公夫婦は、演出側が目指したと思われる「雰囲気を描くこと」(これもおかしな目標だが)の「素材」にもなっておらず、しいていえば役者を「素材感」として北海道の風景にまぶすだけのレシピで終わり? と思うほど人格(現実味)が感じられない。
本作の製作意図には、「北海道の知られてない面をアピールしたい」とあるので、画面を温めてくれる素材や料理が主役の映画であるはずが、役者は「具」どころか「ダシ」でもない「隠し味」程度にしか見えない。
映画の具となる「ジャガイモ」や「ニンジン」はどこにあったのかも分からなければ、パンを焼く窯は屋外にあり「冬はどうするの?」も描かれない。
本作でも「スクリーンを支える力」を見せてくれる原田知世を映画女優と感じさせるのは、「腹のくくり方」ではないかと思う。
絵を造れる存在だから、笑顔がカワイイ、空気感を素材にしたい、などの浮ついた狙いだけで「素材」にして欲しくない思いがある(年取った! は仕方ない)。
黒木和雄監督(遺作)『紙屋悦子の青春』の、決してうまくないが「こんなにも整った表情ができる女優さんはいない」という印象から、彼女は求められたものはクリアできる力を秘めた女優であると感じたし、NHK連続テレビ小説『おひさま』の主人公母親役では、戦前という時代の「モダンさ」を暖かく演じていた。
秘められた力を引き出せる人材がいないために、持てる力を発揮できないという構図は一般社会同様と考えると、社会は膨大なパワーの損失とともに、その裏で持てる力とのギャップからストレスを生み出す「生産工場」のように思えてくる。
薬師丸ひろ子に続いて、コマーシャリズム(売ることが目的の角川商法)の波に乗せられて登場した「映画アイドル」であるが、現在の庶民派的印象の薬師丸と、実生活との距離を感じさせる原田の存在は、当時の印象が逆転したような感もある。
彼女は自身で作品選択をするにせよ、もっと「有効に」使われるべき「素材」と思えてならない。
というラブレターとして……
0 件のコメント:
コメントを投稿