2007/05/28

眉山

2007.05.27 眉山

 監督:犬童一心
 出演:松嶋菜々子、宮本信子、大沢たかお

 阿波踊りの熱気が、そのまま生きる喜びを爆発させ生命賛歌に昇華しているように思え、涙が止まらなかった。
 参加された連(れん:踊りのグループ)の方々には申し訳ないが、踊りの美しさではなく(輝いていた!)、熱気・情熱に心動かされました。こんなにも大勢の真剣な表情を見たのは久しぶりという気がしました。

 で、恋愛の話しはどうでもよかったんだよねぇ?
 母のためにと生命力の奔流(踊りの波)に身を投じることで、自らのアイデンティティをつかみ取った娘のお話しなんだから。と言いたくなるほど、恋愛部分の印象は弱かった。
 恋愛は過程じゃなく結果(子孫に思いを伝え、自立させること)が大切だと言いたいんだよね?
 それは十分に伝わっていると思います。

 宮本信子自身、吹っ切れたから久しぶりの映画出演なのだろうか?(下世話な話しでスミマセン)とても素敵でした。
 松嶋菜々子の容姿はアップになると奇妙な顔立ちが際だってしまうが、シワやソバカスなどをさらけ出してなお、凜とした表情で自身の姿を見せようとする心意気に、人って肝を据えないと他人の心を動かせないものなのだと感じさせられ、同時にそんな気持ちが伝わってきて、大人になったんだろうなあと心で拍手を送りました。
 監督も、食堂で段ボール破る程度のおふざけで済むようになったのだから、大人になったんだろうなあ……
 一方の大沢たかおは、相変わらずの少年のような演技に見えたのだが、男ってきっとそれでいいのかも知れない、と。
 揚げ足を取るように聞こえるかも知れませんが、これでとても褒めているつもりなのです。
 久しぶりのうれしい気持ちなので、思わず軽口が出てしまったという感じでしょうか。

 これを機に、阿波踊りも頑張らないと、高知のよさこいは全国に飛び火しているからなあ……

 P.S. 映画の中では、山が結構キーになることがあるのですが、この眉山の印象と言えば「山頂の鉄塔やアンテナ」ということになってしまうかなあ、と思います。実際、以前行ったときの印象もそうでした……
 「まだ、足を引っ張るんかい?」
 大丈夫、いいものはいいんだから。

2007/05/21

初雪の恋

2007.05.20 初雪の恋

 監督:ハン・サンヒ
 出演:イ・ジュンギ、宮崎あおい

 韓国向けの京都観光案内映画と思ったら、どうも日本映画らしい。
 それでも、韓国のテレビドラマの域をでていない出来としか思えないのは、韓国へ売り込もうという魂胆なのか?
 はたまた、日本の韓流ファンを鼻で笑ったような制作意図なのか?
 イ・ジュンギは可愛いのだけれど、学芸会レベルでは人の心は動かせない。
 それが目当てのおばちゃん(?)に袋だたきに遭いそう。

 観た理由の一つ、京都ロケ地判別に望んだものの、主たる舞台の 松尾大社は分からなかった。
 東山方面を想定してしまったのは、清水寺界隈に惑わされたか? もっと、ちゃんと見て歩かねば。

 もう一つの理由の宮崎あおい(若手演技派No.1とは言え、ライバルなんかいない)は、20代を迎え(22だそうな)ここから難しそうだと思っていたのだが、もうすでに大人の落ち着きの表現も身につけているようで、まだ期待できそうと感じたのですが、さていかに?

 一夜明けて、京都のロマンチックな状況の余韻だけが頭の中をめぐっていることに、物語の内容はともかくとしても舞台としての装置・環境にはもってこいの場所であることを再認識させられました。
 女性に人気があるのは理解できますが、男こそロマンチックであるべきと思うのですが……

 京都で「国内異文化コミュニケーション会議」「文化博」のようなことをやれたら、面白いのではないだろうか?
 日本人は、文化のルーツは京都・奈良(東京ではない)と思っているはずでしょうし、ガイジンも喜ぶのではないでしょうか。
 映画とは関係ない京都の話しになってしまいました。

2007/05/15

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

2007.05.06 東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

 監督:松岡錠司
 出演:オダギリジョー、樹木希林、小林薫、内田也哉子

 堕落的風体である、リリー・フランキーの孝行姿だから涙を誘うのだろう。
 堕落していく青年の姿は、ごくありがちな「なまけもの」程度の描写であっても、リリー・フランキーなら相当ひどかったのだろうと、変な意味での深読みができるところが、奥行きを広げていると思える。(こんな褒め方あり?)
 オダギリジョーがリリー・フランキーを想起させるように、樹木希林を想起させるには娘の内田也哉子(ややこ)をおいて他にはない。見事な配役。

 この映画において、東京(タワー)の存在理由とは何だったのだろうか?
 オトンのタワー建設中の写真や、学問のためという大義名分、夢や仕事を求めて、という展開も理解できるが、それは答えではない。
 オカンは、東京タワーを見たかったのではなく「息子と一緒に暮らしたかった」だけなのであろう。
 オトンと共に一家そろった家族の風景にも、東京タワーは「ライトアップされたボタ山」のような距離感を持って映っている。
 現在東京に暮らす人で、東京タワーに登ったことのない(興味のない)人が多いことは、筑豊のボタ山と同じく「当たり前のように存在している人工物」という、景色のような存在であるからかもしれない。
 詳しい時期は分からないが、双方とも高度成長期と共に高くそびえていったであろうことを踏まえると、昭和の時代の遺物(残骸)として、この映画には登場していたのではないだろうか。

 樹木希林は演技というよりも、自身をさらけ出すことによって存在感を出そうとしているように見えた。
 そこにいるのは演技者であるが、まさしく「樹木希林」以外の何ものでもない姿であったように思う。その圧倒的存在感に涙を誘われた。
 彼女に、何か賞をあげて欲しいと思うのは、わたしだけだろうか?