2010/11/29

冬の小鳥

2010.11.23

 監督・脚本:ウニー・ルコント
 出演:キム・セロン、ソル・ギョング
 韓国・フランス映画

 父親に捨てられてしまう少女の物語。フランス人監督の経験から生まれた脚本を韓国人監督が気に入り、プロデュースを買って出て映画化された。


 父親によって孤児院(児童養護施設と表現すべきらしいがあえて)に置き去りにされた少女にとって、父の行為を理解し自分の置かれた状況を受け入れるまでには、気が狂わんばかりの苦悩と長い時間が必要であろう。
 それを受け入れられず、ただ父の迎えを待つつもりの少女としてみれば、突然閉じこめられた施設での生活など関心すらないのだが、待ち続ける日々が積み重なるにつれ、待つために生きていくことの必要性を感じ始めていく。

 よく「心の機微をとらえる」というが、幸いにしてそんな経験のないわたしには理解できないものの、思い当たる経験のある方には身につまされる描写の数々なのかも知れない。
 加えて無用な感情移入を拒むかのように、主人公のアクションは極力押さえられるため、主人公の心情を客観的に観ることが強いられる。
 そのかたくなさは、少女が置かれた状況をすべて受け入れ、養女として引き取られ「生きていく」ことを、自らの意志で決めた時に起こす唯一のアクションに収れんされる。
 けなげさがあまりにも痛々しい「笑顔」というアクションには、観る者を突き放す彼女の苦悩が込められている。
 それ以外のアクションに、主人公の孤独感を伝える手段はない、という演出者の強い意志の表れかも知れない。

 物語が終わっても結局ボールはこちらに投げられず、主人公が背負ったままとなるので、われわれには、彼女の重荷が少しでも軽くなるよう祈ることしか与えられない。
 「いつか彼女の心に希望の光がともりますように」と……
 ──この印象は、フランソワ・トリュフォー監督『大人は判ってくれない』(1959年)を観終えて感じたものに似ている。

 出来として成功とは思えないものの、映画館の看板(岩波ホール)や宣伝に使われた少女(ジニ)の悲しげな表情は、鑑賞後の余韻の方が強く残る印象があり、『ミツバチのささやき』の「アナ」のようにこの先も忘れられなくなるかも知れない……

2010/09/27

オカンの嫁入り

2010.09.07

 監督・脚本:呉美保
 出演:大竹しのぶ、宮崎あおい

 好評を博した大河ドラマを経て、もう仕事を選ぶ立場でいいと思う宮崎あおいですが、今回は大竹しのぶとペアの「2本釣り」だったのではあるまいか?
 お互いに「この相手ならやってみたい」という気にさせる組み合わせの誘いが、見事にはまったと思われる企画に、こちらもはめられた印象があります。

 物語は、関西地区のローカルテレビ局で放映されるような、お騒がせ家族モノなので、笑えずに失笑するものの、舞台として登場する京阪電車(大阪〜京都を結ぶ)や、京都と思われる町並みに懐かしさが感じられました。

 あおいちゃんのスゴイところは、衝撃的な話を聞き、ショックのあまり身じろぎできない様子のドアップの長回しを、微妙な表情の変化で見せきって、スクリーンを支えてしまう迫力にあります(『剣岳 点の記』でも感じた、映画スタアが持つ力です)。
 わたしが監督だったとしても、重要なポイントではきっと彼女のアップの長回しを選択すると思うほど、魅力的であると思います。
 大竹しのぶの演技力をしても、ドアップで使おうとする人がいないことを考えれば、その魅力が理解できるのではないでしょうか。

 大竹しのぶは宮崎を認めているからこそ、突き放すようなそぶりを見せているように感じられます。
 「この子、きっと目を合わせにくるから、避けなくちゃ。でも、この子なら何とかするはずよ」
 なんてやりとりが見えたような気がしますし、あおいちゃんも大御所の𠮟咤を理解しているように見えました。
 そんなふたりの掛け合いが楽しめるのですから、観る価値があると言えるのでしょうね。

 テレビには出演しないあおいちゃんが、本作のプロモーションをきっかけに、テレビのバラエティに出演する姿を見ましたが、緊張しているのか、以前のままの少女(ガキ)なのか、素の印象はちょっと残念なものでした……
 映画スタアは、映画で華を見せてくれればいいのだから、またスクリーンで頑張って欲しいモノです。

2010/03/01

おとうと

2010.02.21

 監督:山田洋次
 脚本:山田洋次、平松恵美子
 出演:吉永小百合、笑福亭鶴瓶

 監督が、これで鶴瓶をコントロールしていたと考えたなら、ちょっと違うような印象を受けました(かなりはみ出している気がします──何が?)。
 テレビの鶴瓶(遠慮があるんだろうか? 「家族に乾杯」「ブラックジャックによろしく」等)は好きなんですが、映画の彼には関西芸人の性分というのか、「いやらしさ、えぐさまで見せたろ」という下心まで見える気がして、どうも箸がすすみません(昨年評価が高かった『ディア・ドクター』でも、鶴瓶の素が見え隠れした気がしてダメでした)。
 演技者の顔ではなく、芸人の素(本気でやるでぇ)が見えた気がしてなりません(むかしのビートたけしの「狂気性」にも関心は無いので、役者ならば、人を楽しませ引きつける芸であって欲しいと思っています)。

 山田洋次さんの「若手育成に取り組む」との話しは、少し前に聞いていましたが、どうも本作からは、「若手の習作」をロートルたちがサポートしている現場の様子が思い浮かんできます。
 山田組は(寅さんを含めて)段取り芝居ですから、そのおさらいを若手たちに実践させているようにも受け止められました(でも現場での山田さんは、見守ることも我慢できなかったのではあるまいか)。
 ならば、その段取りストーリーの完成度を感じさせて欲しいと思うのですが、結局鶴瓶の散らかし放題を、吉永さんが尻ぬぐいに回るばかりが印象に残ります(ストーリーだけではなく、映画自体の空気も)。蒼井優ちゃんも素材以上の演技は求められていない気がしました。
 前作である『母べえ』(決して明るい話しではない)が、先日テレビ放映されたのをチラッと見たのですが、面白くてしばらくチャンネル変えられなかった印象が、本作への期待外れにつながったのかも知れません。

 エンドロールに「市川崑監督作品『おとうと』(1960年)に捧ぐ」とあり、とてもいい作品との印象を持ちながらも内容が薄れていたので再見したところ、その素晴らしさに本作の陰までも見失いました。
 テーマ設定は共に「家族の再生」であっても、時代背景や作劇での狙いどころは違いますから、比べられるものではありませんが、旧作の岸恵子さんの「烈」が見事に花咲かせたのに対して、「忍」がはまる吉永小百合さんを、より押しこめようとしたため、不完全燃焼に終わってしまった印象を受けます。
 関西で育った女性の気性を、吉永さんに求めるのは無理なのかも知れませんが、そんなこと以上に、演出が彼女を縛っていた気がしてなりません(他の出演者にも言えるのではあるまいか)。

 前作では、吉永さんの思い通りの自由な演技と思える姿から、とても好印象を受けたのですが、監督はそれが気に入らなかったのだろうか?(吉永さん、少し顔が変わったような印象を受けました)。

2010/02/08

今度は愛妻家

2010.01.31

 監督:行定勲
 脚本:伊藤ちひろ
 出演:豊川悦司、薬師丸ひろ子

 この監督の作品はいつも「冗長」と感じてしまう面があります。
 巨匠のスタイルを作ろうとしているのか、ダラダラと話しを膨らまそうとするばかりで、しまいには飽きてしまい、演出の印象すら霧散してしまいます。
 またこの監督には、サディストと感じられる面もあり(『世界の中心で、愛をさけぶ』で長澤まさみの頭をそらせたのは成功例だが)、本作の目的は「女神 薬師丸ひろ子像の解体」だったのか? という印象を受けます。
 インタビューで耳にした「薬師丸ファン」を自認する監督が、彼女の顔で「福笑い」をしたかった(?)とも思える表情のとらえ方に、女神のイメージを分解しようとする意志が感じられました。
 確かに、彼女のそれぞれのパーツを分解すると「不思議な組み合わせで出来ていたんだ」と感じさせられる部分に、彼の主題があったのだろうと、納得できる面もあります。
 また彼女には、わざとベタベタとだんなにまとわりついて、男には「うっとうしい」と感じる人物像を求めたのでしょう。
 当時の「薬師丸フリーク」が、父親や中年のオヤジとなった現在において、幻想を捨てるためには必要な儀式だったりするのかも知れません。
 実際は「あんなに太ってないだろう?」という幻想も含めて、「現実と向き合おう」(奥さんや家庭環境等)という提言なんだと受け止めました。
 ──フリークではないわたしには、もうすっかり「一平くんのお母さん」(映画『三丁目の夕日』)としての魅力が定着しているのですが……

 トヨエツのだらしない役まわりははまりすぎで、身のこなしが様になるところなど、監督の自己投影願望が感じられる気がします。

 結局、室内が舞台の会話劇ですから、これで130分(長すぎ)では「疲れたぁ」という印象しか残りません……