2009.9.15
監督・脚本:エルマンノ・オルミ
出演:ラズ・デガン、ルーナ・ベンダンディ
本作はイタリア映画で、新約聖書にまつわる現代の寓話になります。
ボローニャ大学の図書館で、聖書が100本の釘によって磔刑(たっけい:はりつけ)のように、床や机に打ちつけられる事件が発生し、哲学科教授の手によるものと判明しますが、本作はその動機の背景についての物語になります(原題はCentochiodi:100本の釘)。
いきなりネタばらしのようですが、そんなことでこの作品は揺るぎません。
──ヨーロッパ最古の総合大学とされるボローニャ大学には、ダンテ(叙事詩『神曲』 1321年没)、コペルニクス(地動説 1543年没)、ガリレオ(「それでも地球は動いている」 1642年没)が在籍し、ウンベルト・エーコ(『薔薇の名前』の原作者)が教鞭をとったそうです。
上述の反宗教的とも思われる行為は、聖書やキリスト教の教義に対する抗議ではなく、権力集団と化してしまった教会や学会的な知識人組織に対する、原点回帰を訴えるための一矢であると思われます。
哲学教授は自己再生のために、すべてを捨て去りポー川の河辺にある廃虚で暮らし始め、河畔を不法占拠しながら生活するコミュニティの人々に求められ、「自分の言葉」として聖書の教えを語るようになります。
そこで住民たちに「キリストさん」と呼ばれるようになることが、重要であると思われます。
教団の布教活動では重要になると思われる「奇跡」ですが、庶民にとってはそれ以前に、日常生活の「やすらぎ」というものがとても大切なものになってきます。
本作の「キリストさん」は結局、退去勧告を迫られた河辺の人々には、何も与えられなかったようにも見えますが、そんな彼の帰りを迎えるための道しるべとして灯された明かりは、河辺の人々の希望の光であると受け止められます。
舞台であるポー川の河辺を、聖地エルサレム(キリストが教義を語り、そして処刑・埋葬・復活したとされる場所)に例えているようにも思われます。
しかし、その場所だけを特別視する理由の無いことを、「キリストさん」がそこに戻ることなく、川面から立ち去る印象を残し姿を消してしまうことで表現しているように思われます。
それを「神の不在」ととらえるか、「人類の正念場」ととらえるか、についての作者の提起はありません。
現代社会は、教義の対立ではなく、宗教組織間の争いによる危機に直面していることを、訴えているのだと思われます。
冒頭のインド出身の学生との会話に
学生「わたしは子どものころ、世の中のみんなを救いたいと考えていた」
教授「子どもはみなそう考えるが、やがて自分を守ることで精一杯になる」
とありました。
これは、インドの学生を「仏教」に例えたものと思われ、宗教全般に対しての作者の考え方の表れと思われます。
もともと、どの宗教も「世の中の人々を救いたいがために始まった祈り」であるはずだと……
冒頭の「どんな書物も、書物そのものは語らない」というクレジットは、物語の主題とされるキリスト教に対する見解かと思っていましたが、「コーラン」を神格視するイスラム教に対する見解でもあるように思えてきました。
エルマンノ・オルミ監督の名前を久しぶりに目にして、懐かしさから足を運びました。
『木靴の樹』(1978年)しか観ていませんが、でも「絶対に裏切られない」と勝手に思い込んでおりました。
上記の作品は3時間に及ぶ長編で、何度となく睡魔の誘いに屈しましたが、木靴を手にした子どものうれしそうな目だけは良く覚えています。
これまでも多作でありながら、日本公開は限られていたようです。今後はドキュメンタリーを軸に撮られるそうで、また機会があれば足を運びたいと思っています。
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