2010/03/01

おとうと

2010.02.21

 監督:山田洋次
 脚本:山田洋次、平松恵美子
 出演:吉永小百合、笑福亭鶴瓶

 監督が、これで鶴瓶をコントロールしていたと考えたなら、ちょっと違うような印象を受けました(かなりはみ出している気がします──何が?)。
 テレビの鶴瓶(遠慮があるんだろうか? 「家族に乾杯」「ブラックジャックによろしく」等)は好きなんですが、映画の彼には関西芸人の性分というのか、「いやらしさ、えぐさまで見せたろ」という下心まで見える気がして、どうも箸がすすみません(昨年評価が高かった『ディア・ドクター』でも、鶴瓶の素が見え隠れした気がしてダメでした)。
 演技者の顔ではなく、芸人の素(本気でやるでぇ)が見えた気がしてなりません(むかしのビートたけしの「狂気性」にも関心は無いので、役者ならば、人を楽しませ引きつける芸であって欲しいと思っています)。

 山田洋次さんの「若手育成に取り組む」との話しは、少し前に聞いていましたが、どうも本作からは、「若手の習作」をロートルたちがサポートしている現場の様子が思い浮かんできます。
 山田組は(寅さんを含めて)段取り芝居ですから、そのおさらいを若手たちに実践させているようにも受け止められました(でも現場での山田さんは、見守ることも我慢できなかったのではあるまいか)。
 ならば、その段取りストーリーの完成度を感じさせて欲しいと思うのですが、結局鶴瓶の散らかし放題を、吉永さんが尻ぬぐいに回るばかりが印象に残ります(ストーリーだけではなく、映画自体の空気も)。蒼井優ちゃんも素材以上の演技は求められていない気がしました。
 前作である『母べえ』(決して明るい話しではない)が、先日テレビ放映されたのをチラッと見たのですが、面白くてしばらくチャンネル変えられなかった印象が、本作への期待外れにつながったのかも知れません。

 エンドロールに「市川崑監督作品『おとうと』(1960年)に捧ぐ」とあり、とてもいい作品との印象を持ちながらも内容が薄れていたので再見したところ、その素晴らしさに本作の陰までも見失いました。
 テーマ設定は共に「家族の再生」であっても、時代背景や作劇での狙いどころは違いますから、比べられるものではありませんが、旧作の岸恵子さんの「烈」が見事に花咲かせたのに対して、「忍」がはまる吉永小百合さんを、より押しこめようとしたため、不完全燃焼に終わってしまった印象を受けます。
 関西で育った女性の気性を、吉永さんに求めるのは無理なのかも知れませんが、そんなこと以上に、演出が彼女を縛っていた気がしてなりません(他の出演者にも言えるのではあるまいか)。

 前作では、吉永さんの思い通りの自由な演技と思える姿から、とても好印象を受けたのですが、監督はそれが気に入らなかったのだろうか?(吉永さん、少し顔が変わったような印象を受けました)。

2010/02/08

今度は愛妻家

2010.01.31

 監督:行定勲
 脚本:伊藤ちひろ
 出演:豊川悦司、薬師丸ひろ子

 この監督の作品はいつも「冗長」と感じてしまう面があります。
 巨匠のスタイルを作ろうとしているのか、ダラダラと話しを膨らまそうとするばかりで、しまいには飽きてしまい、演出の印象すら霧散してしまいます。
 またこの監督には、サディストと感じられる面もあり(『世界の中心で、愛をさけぶ』で長澤まさみの頭をそらせたのは成功例だが)、本作の目的は「女神 薬師丸ひろ子像の解体」だったのか? という印象を受けます。
 インタビューで耳にした「薬師丸ファン」を自認する監督が、彼女の顔で「福笑い」をしたかった(?)とも思える表情のとらえ方に、女神のイメージを分解しようとする意志が感じられました。
 確かに、彼女のそれぞれのパーツを分解すると「不思議な組み合わせで出来ていたんだ」と感じさせられる部分に、彼の主題があったのだろうと、納得できる面もあります。
 また彼女には、わざとベタベタとだんなにまとわりついて、男には「うっとうしい」と感じる人物像を求めたのでしょう。
 当時の「薬師丸フリーク」が、父親や中年のオヤジとなった現在において、幻想を捨てるためには必要な儀式だったりするのかも知れません。
 実際は「あんなに太ってないだろう?」という幻想も含めて、「現実と向き合おう」(奥さんや家庭環境等)という提言なんだと受け止めました。
 ──フリークではないわたしには、もうすっかり「一平くんのお母さん」(映画『三丁目の夕日』)としての魅力が定着しているのですが……

 トヨエツのだらしない役まわりははまりすぎで、身のこなしが様になるところなど、監督の自己投影願望が感じられる気がします。

 結局、室内が舞台の会話劇ですから、これで130分(長すぎ)では「疲れたぁ」という印象しか残りません……

2009/10/19

ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~

2009.10.15

 監督:根岸吉太郎
 脚本:田中陽造
 出演:松たか子、浅野忠信

 ファーストシーンの、主人公である浅野忠信が暗闇を駆けてくるシーンには、いきなり食いついてしまう迫力がありました。
 作品テーマのようなシーンですから、力が入っていたようです。

 原作者である太宰治の、生誕100年という節目に企画された作品なので、本作の製作意図には「太宰の人物像を多角的な視点から浮かび上がらせる」ことが、念頭に置かれているようです。
 本作では、表題作に加え「思ひ出」「灯籠」「姥捨」「きりぎりす」「桜桃」「二十世紀旗手」等の作品からもエピソードを抽出(公式ホームページより)することで、太宰像をあぶり出そうとしています。
 タイトルまでは記憶していませんが、覚えのあるイメージが散りばめられており、詳しくないのですが、わたしなりの太宰像に近しい印象を受けました。

 監督の思いも強かったと思われますが、その功績は脚本の田中陽造さんの力によるものだと思われます。
 この方の成功作『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)等では、妖術(?)を使って脚本を書いているのでは、と思われるような、不可思議な世界が造形されるので、怪しいと思いながらも引き込まれてしまう、ワンダーワールドが繰り広げられていきます。
 また、監督も脂がのっているようで、近作の『雪に願うこと』(2005年)、『サイドカーに犬』(2007年)は共に印象に残っていますが、本作では風格すら感じさせられました。

 不道徳とされる問題を次々に起こす夫を、懸命に支える妻の「何事も受け止める包容力」には、心を揺さぶられます。
 どんな存在であっても救うことのできない人物でありながらも、妻に背負わせた不道徳すらも「心の闇」に吸い込もうとする太宰に対して、妻が差し伸べる「生きていればいいのよ」の言葉で終わらせたのは、見事な終幕であったと思います。
 しかし、ここに描かれているのは太宰治であると認識しているわれわれは、それでも太宰は死を選ぶという「映画には描かれない結末」を、心の中に持ち合わせています。
 結局作者側(監督・脚本)は、ポジフィルムでは太宰治という「心の闇」を描くことはできないことを、白状しているように思えます。
 本作のテーマは、エンドマークの後で観客自身に、この物語をネガフィルムに反転してもらうことなのではないか? とも思えます。
 しかしそれは、物語が完結できていないことの裏返しでもありますが、現在でも新たな読者を増やし続ける「心の闇」という身近なテーマを、映画で訴える手段としては、かなり近しいものに思えます。
 ──ネガ・ポジの例えを用いるのは、とても古くさい表現だと思いつつも……


 そんなスタッフに比べ、演技陣には物足りなさが感じられます。
 松たか子(彼女は舞台向きの役者ではないか?)の懸命な姿勢は見て取れるのですが、内面から伝わるモノが感じられませんし、浅野忠信には近ごろ、小手先でこなそうとしているような薄っぺらさが感じられます。
 監督に要求されるものが、とても難しいことは理解できますが、妻夫木聡のように懸命な姿勢が見たかった気がします。

 ヴィヨンとは、高い学識を持ちながら悪事に加わり、逃亡・入獄・放浪の生活を送った、フランス中世末期の近代詩の先駆者フランソワ・ヴィヨンのこと。無頼で放蕩な人の例えとして使われている。(公式ホームページより)

2009/10/05

空気人形

2009.9.29

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:ペ・ドゥナ

 空気人形とは、空気で膨らます人間の形をした人形で、その役割は
 「わたしは空気人形。性欲処理の代用品」
 というものになります。
 日本映画のそのような役柄であるにもかかわらず、韓国の女優であるペ・ドゥナがよく出演を決断したものだ、と驚かされました。
 空気人形が「心を持つ」物語において、無垢(むく)な存在の言葉が、たどたどしい日本語であることは、とても大きな要素であることは確かです。
 ──むかしの映画『田園に死す』(1974年 監督:寺山修二)には、「空気女」(春川ますみ )という見せ物小屋の人気者がいたりしましたが、それは寺山修二の創作による哀れな存在であったと思います。

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 ダッチワイフの語源となるダッチ(Dutch)には、オランダを蔑視(べっし)する意味があるそうです。
 植民地時代の商売敵であるイギリス人やアメリカ人が悪口として、「Dutch Wife(オランダ風妻)」として呼んだという説があるそうで、現在では「Sex Doll」と呼ばれるそうです。
 監督が説明に使っていたラブドールを調べてみたのですが、これは風船ではなく、豊胸等に使用されるシリコーンで作られた人形になるそうなので、柔らかなマネキン人形のイメージでしょうか。
 その辺りはあまり掘り下げないつもりだったのですが、世界的にもかなりディープな世界が広がっているようで驚きました。
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 「中身が空っぽな存在(人間)を同類と認識する意識」「日差しによる陰が透き通ってしまう造形」「息を吹き込まれるエクスタシー」等々の腐心は見事です。
 そんな情景描写の積み重ねの部分では、昨年亡くなった市川準(じゅん:『病院で死ぬということ』等の監督)さんを想起させられ、また、苦悩の決断によるその選択について、こちらが思いをめぐらする部分では、こちらも亡くなられた相米慎二(『台風クラブ』等の監督)さんが想起させられました。
 おそらく、狙っていた場面は思い通りに撮れていても、ファンタジーとしての着地点を模索していたように思えました。
 韓国映画のような散り方にも感じられますし、中身は空のラムネの瓶でも「向こう側の景色はぼやけてしか見えない」ところが、日本映画的であるとも言える気がします。

 批判と取られそうなことを書きましたが、本作はとても「映画らしい作品」だと思います。
 作り手側の苦悩・奮闘ぶりを感じさせてくれる部分が、とても映画らしいのではないか、と思われた作品です。
 韓国国民の感情を逆なでして、国際問題の火種にならないようにと、最後まで腐心されていたのではないでしょうか。それはまさに「チャレンジ精神」と言えるかも知れません。
 ビニールの接合部分の跡を化粧で消してもらうシーン等には、ペ・ドゥナの素顔が出ているようにも思えたので、彼女自身にも満足感はあったのではないだろうか。

 撮影の李屏賓(リー・ピンビン)は、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)や王家衛(ウォン・カーウァイ)の作品を手がけた方です。
 出番は少ないにしても脇役陣の押さえ方は、構成力によるものと思います。
 是枝裕和作品には、『幻の光』『誰も知らない』『歩いても 歩いても』等があります。

2009/09/26

プール

2009.9.24

 監督・脚本:大森美香
 出演:小林聡美、加瀬亮、もたいまさこ

 本作の舞台はタイのチェンマイになり、とてものんびりとした風景の中で物語が描かれていきます。
 はじめての海外旅行の地で、もたいまさこさんが「こんにちは」とお辞儀してくれたら、もうそれだけでなごんでしてしまう、導入部の場面があります。

 娘を捨てて家を出ていった母親(小林聡美)が暮らすタイの地を、初めての海外旅行で訪問する娘(伽奈)との母子関係が、自然に囲まれたプールのあるゲストハウスにおいて修復されていく、という話しになります。
 そのゲストハウスには、親のいない存在(男の子、ネコ、犬、牛等)が身を寄せており、親なし子の面倒を見る独身男(加瀬亮)は、「母親に会いたい」男の子の願望をかなえようと奔走します。

 そんな仲間が、肩を寄せながら暮らしていきましょう、という話しであるならば、まったりと観終えることができるのですが、母親が、娘の養育を放棄したことを認めるばかりか、自己主張として娘に向かって語り始めます。
 子どもを生んでも、「母親だから」という理由で、子どもに縛られる義務は無いんだ、との主張と受け止められました。
 終幕において、母親の求めているものや、女性としての強さについて、娘は理解できたであろうことは、伝わってきた気がします。
 しかし百歩譲って、子どもを見捨てることで母親が自由になれることを認めたとしても、親のいない存在はこのゲストハウスのような、善人に引き取ってもらえばいいとするならば、ちょっと理解ができません。
 親が子どもを育ててさえいれば(特別な事だとは思えません)、親のいない存在が寄り集まる場所などは必要ないのですから……
 そんな、世間の「親はちゃんとしているのが当たり前」という認識に対する反論というか異議なのだろうか?
 訴えたいとする意志のあることは理解できるのですが、その内容についてはちょっと理解できませんでした。
 ──ダメな親もいるのよ、というニュアンスだとしたら弱すぎると思います。また、物語には父性も欠落しています。父親や男性に対する批評であるならば、もっと別な訴え方があるかと思われます。

 親のいない男の子は「ビー」という名前で、『ホノカアボーイ』の倍賞千恵子さんの役名(みつばち)と同じです。
 ここでは「みなしごハッチ」の意味とされるのか? とは、勝手な想像のしすぎでしょうし、タイでは意味が違うかも知れません……

 「靴を脱いでね」という、素足の文化になじんでいくことで、足元を見つめ直すような物語であって欲しかった気がします。

2009/09/22

ポー川のひかり

2009.9.15

 監督・脚本:エルマンノ・オルミ
 出演:ラズ・デガン、ルーナ・ベンダンディ

 本作はイタリア映画で、新約聖書にまつわる現代の寓話になります。

 ボローニャ大学の図書館で、聖書が100本の釘によって磔刑(たっけい:はりつけ)のように、床や机に打ちつけられる事件が発生し、哲学科教授の手によるものと判明しますが、本作はその動機の背景についての物語になります(原題はCentochiodi:100本の釘)。
 いきなりネタばらしのようですが、そんなことでこの作品は揺るぎません。
 ──ヨーロッパ最古の総合大学とされるボローニャ大学には、ダンテ(叙事詩『神曲』 1321年没)、コペルニクス(地動説 1543年没)、ガリレオ(「それでも地球は動いている」 1642年没)が在籍し、ウンベルト・エーコ(『薔薇の名前』の原作者)が教鞭をとったそうです。

 上述の反宗教的とも思われる行為は、聖書やキリスト教の教義に対する抗議ではなく、権力集団と化してしまった教会や学会的な知識人組織に対する、原点回帰を訴えるための一矢であると思われます。

 哲学教授は自己再生のために、すべてを捨て去りポー川の河辺にある廃虚で暮らし始め、河畔を不法占拠しながら生活するコミュニティの人々に求められ、「自分の言葉」として聖書の教えを語るようになります。
 そこで住民たちに「キリストさん」と呼ばれるようになることが、重要であると思われます。
 教団の布教活動では重要になると思われる「奇跡」ですが、庶民にとってはそれ以前に、日常生活の「やすらぎ」というものがとても大切なものになってきます。
 本作の「キリストさん」は結局、退去勧告を迫られた河辺の人々には、何も与えられなかったようにも見えますが、そんな彼の帰りを迎えるための道しるべとして灯された明かりは、河辺の人々の希望の光であると受け止められます。

 舞台であるポー川の河辺を、聖地エルサレム(キリストが教義を語り、そして処刑・埋葬・復活したとされる場所)に例えているようにも思われます。
 しかし、その場所だけを特別視する理由の無いことを、「キリストさん」がそこに戻ることなく、川面から立ち去る印象を残し姿を消してしまうことで表現しているように思われます。

 それを「神の不在」ととらえるか、「人類の正念場」ととらえるか、についての作者の提起はありません。
 現代社会は、教義の対立ではなく、宗教組織間の争いによる危機に直面していることを、訴えているのだと思われます。
 冒頭のインド出身の学生との会話に
 学生「わたしは子どものころ、世の中のみんなを救いたいと考えていた」
 教授「子どもはみなそう考えるが、やがて自分を守ることで精一杯になる」
 とありました。
 これは、インドの学生を「仏教」に例えたものと思われ、宗教全般に対しての作者の考え方の表れと思われます。
 もともと、どの宗教も「世の中の人々を救いたいがために始まった祈り」であるはずだと……

 冒頭の「どんな書物も、書物そのものは語らない」というクレジットは、物語の主題とされるキリスト教に対する見解かと思っていましたが、「コーラン」を神格視するイスラム教に対する見解でもあるように思えてきました。

 エルマンノ・オルミ監督の名前を久しぶりに目にして、懐かしさから足を運びました。
 『木靴の樹』(1978年)しか観ていませんが、でも「絶対に裏切られない」と勝手に思い込んでおりました。
 上記の作品は3時間に及ぶ長編で、何度となく睡魔の誘いに屈しましたが、木靴を手にした子どものうれしそうな目だけは良く覚えています。
 これまでも多作でありながら、日本公開は限られていたようです。今後はドキュメンタリーを軸に撮られるそうで、また機会があれば足を運びたいと思っています。

2009/09/14

九月に降る風

2009.9.8

 監督・脚本:トム・リン(林書宇)
 出演:リディアン・ヴォーン(鳳小岳)、チャン・チエ(張捷)、ジェニファー・チュウ(初家晴)

 本作は、台湾の悪ガキ高校生グループの青春群像を描いた物語になります。
 予備知識は皆無の状態で、『風櫃(フンクイ)の少年』(ホウ・シャオシェン:候孝賢 1983年)に通じる雰囲気だけをイメージして足を運びました。

 心の痛さがとても響いてくる台湾の青春映画に引かれるのは、日本占領下(1895年(明治28年)下関条約による台湾の日本割譲〜第二次世界大戦まで)での文化の押しつけが、現在も接点とされる親近感ではなく、東アジアの島国という環境・歴史に根付く「島国文化」という共通点を、実感できる面にあると思われます。
 そこには、わたしたちの暮らす国が、これまで行ってきた行為に対する反省から感じる「痛さ」が含まれますし、忘れつつある島国特有の「おおらかさ」を思い出させてくれるような「刺激」が含まれるようにも思われます。
 ──同じ隣国である、韓国、中国には「むき出しの反日感情」が存在することを理解しているので、こちらにも一応身構える姿勢が必要になります。しかし、台湾には「好日的」と言える空気があることを感じる度、自らの意志によって「反省すべき」という気持ちがわき上がってきます。それを、島国の連帯感と考えたいと思ったりします。

 本作の舞台は1996年、台湾新竹(IT企業が集まる「台湾のシリコンバレー」と呼ばれる町)で、当時の台湾プロ野球界を揺るがせた八百長事件を背景にして描かれます。
 劇中に登場する元プロ野球選手で、八百長事件で追放される廖敏雄(リャオ・ミンシュン 本人が登場)は現在、高校野球の監督として野球に情熱を注いでいるそうです。
 九月は台湾の新学期にあたります。
 高校卒業の時にしか感じることのできない、社会に踏み出す者への洗礼のように降る「新しい風」と、ダーティーとされながらも心の中で生き続けているヒーローに、スカッとホームランされることにより、主人公は後押しを受けます。道を踏み外した者にも、夢を追い続けることは可能であると……
 痛みを知った者同士が、尻をたたき合いながら再スタートする姿を、見守ろうとするおおらかな視線のあることが、観る者にも救いと感じられるのではないでしょうか。

 露出が増えれば日本でも人気が出そうな、ジェニファー・チュウちゃんをヒロインに起用するあたりは、現代台湾映画の戦略傾向なのかも知れません。
 以前の『恋恋風塵』等では、イモ姉ちゃん(大変失礼! シン・シューフェンの大ファンでした)たちの素朴さを、しみじみかみしめたものでした……
 そんな思いもよみがえってきたのですから、本作を観たかいがあったというものです。

 劇中に『恋恋風塵(れんれんふうじん)』(ホウ・シャオシェン 1987年)の映像が使われていて、一気にタイムスリップした気分にさせられ、『悲情城市』(ホウ・シャオシェン 1989年)、『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(エドワード・ヤン:楊徳昌 1991年)の世界がよみがえってきました。
 確かに描かれる時代背景は違うのですが、伝わってくる「痛み」の空気感というか、映画の肌触りから感じられる台湾らしさというものは、変わっていないように思われました。

2009/08/03

真夏の夜の夢

2009.7.30

 監督:中江裕司
 出演:柴本幸、蔵下穂波、平良とみ、照屋政雄

 この監督は『ナビィの恋』で評価を上げたものの、続く『ホテル・ハイビスカス』は、怪作? というアクの強さがあり、入り込めなかった覚えがあります(でもサントラ盤は持っています)。
 しかし本作は、『ホテル〜』以上にすっ飛んでいる印象がありながらも、こちらにも免疫がついたのか、受け止めることが出来たと思います。
 ──その間に観た『白百合クラブ東京へ行く』(石垣島の白保地区に暮らすおじい・おばあたちの楽団の物語で、彼らは沖縄サミットで演奏しました)に心打たれ、細かいことは「許してあげようねぇ」の沖縄的精神が身に付いたのかも知れません。

 毎日新聞のサイトに「筆者は精霊とのつながりがないせいか、何を描きたいのかさっぱり分からなかった。」とありました。
 まさにそこが、本作の評価においての分かれ目になると思っていたので、見事に表現してくれる言葉であると、引用させてもらいました。
 本作のテーマは「人と精霊の共生」「自然に対する畏怖と共生のあり方」になるかと思われます。
 原作はシェークスピアの「真夏の夜の夢」とされ、その物語では森の妖精たちが登場し、さまざまな騒動を巻き起こしていきます。
 ヨーロッパでは夏至の日に、妖精の力が強まり祝祭が開かれる、という言い伝えがあるそうです。
 一方、沖縄地方に精霊として伝えられる「キジムン(キジムナー)」に関しては、季節的な活動について耳にしたことはありません。
 島で暮らす人々にも、神秘的な出来事をそのまま受け止めようとする民族性があるので、沖縄の精霊との方が一緒に暮らしやすそうな気がします。

 沖縄を舞台にした、ウチナー(沖縄人)視点で作られた映画には、唄や演劇を取り込んだ作品が多く見られます。
 沖縄(琉球)は島の連なりですから、立地条件からも島の外に出ることはままならず、楽しみの少ない時代には、それぞれの島で唄や踊り等の芸能が生まれ、伝えられ、それがいわば「島の古文書」になっているのだと思います。
 それゆえ、島の原風景を描こうとしたときには、島に伝わる芸能を描くことになり、それが「ウチナー的な映画」というか、現代の芸能・文化として生まれる(再生される)のだと思われます。
 監督はヤマトンチュー(京都出身→沖縄在住)なので、ウチナーの感覚に近づきたい気持ちがあると思われますが、本作は、結構ウチナー的感性で作られているように感じられました。
 それにしてもこの監督は、おじい・おばあに取り入るのが上手なようで、本作でも沖縄芸能界の重鎮とされる方々がこぞって名を連ねています。
 平良とみ、平良進、吉田妙子、照屋政雄、登川誠仁 等々……
 むかしの琉球言葉である「ウチナーグチ」を伝えていきたいという活動に、賛同してくれる方々なのだろうと思われます。
 そんなセリフには、字幕が表示されます。

 ラスト近くの、山の頂(眼下に森と海を見下ろす場所)で主人公の女性とキジムナーが眠るシーンは、『もののけ姫』のサンとモロ(山犬)が崖下の森を眺める場面の、実写版を目指したと思えるような見事なシーンでした。

 主役の柴本幸(柴俊夫・真野響子夫妻の娘)は、可もなく不可もなくでも、印象に残りました。
 『ホテル・ハイビスカス』で、「じゃりン子チエ」ぶりを発揮した蔵下穂波(ほなみ)ちゃんは、相変わらずエネルギッシュな生命力を体現していて、あのまま大人になったらどうなっちゃうのだろう、と思ったりします。
 ご無沙汰の平良とみさん(TVドラマ「ちゅらさん」のおばあ役)には「ハイサイ、オバア元気ね?」と声を掛けたくなりますし、目が離せませんよねぇ。
 あの方のセリフの抑揚、呼吸、間、見栄の切り方等々、どれをとっても、あの方にしかできない表現力として、観る者を釘付けにします。
 「おばあ」が元気なうちに、もっともっと映画やテレビでその姿を見たいと、切に望んでおります(大ファンです)。

 映画の出来については、褒め言葉があまり見つかりませんが、「楽しい時間を過ごさせてもらい、ありがとうございました」という感想でいいのではないか、と思っています。

2009/07/27

ディア・ドクター

2009.7.23

 原作・監督・脚本:西川美和
 出演:笑福亭鶴瓶、瑛太、余貴美子、香川照之、八千草薫

 心やさしい詐欺師の物語、とでも言うのでしょうか?
 テーマとしては、社会派と言えるほど骨格のしっかりした問題提起なのですが、パンチ力不足という気がしました。
 笑福亭鶴瓶を主役に決めた時点で、腹をくくった面があるように思われます。
 彼の演じる人物像は、周囲から愛され人の心を和ませる力を持っているものの、その反面、輪郭のぼけ足が長いため、物語にグラデーションがかかってしまい、テーマの毒性も薄まった印象があります。

 医師資格を詐称して、偽医師になりすました側も確かに悪いのですが、過疎地に暮らす住民(ほとんど老人)たちにとっても、親身な言葉をかけてくれる「存在」(偽医師でも誰でもいい)は、徐々に心の支えとなっていきます。
 村の人たちは彼が偽医者であることを知りながら、彼を祭り上げることで彼の「良心」にすがってきた、と受け止められる面もあります。
 それはあたかも「貴方は医者の役なんだから、その役を演じきる義務がある」と、圧力をかけているようにも思えます。
 偽医者は、その期待に応えるための努力により、多くの患者たちを救っていくことになります。
 村民が求めているのは、医師の資格や最新の医療技術ではなく、親身になって患者の心と体に向き合ってくれる「存在」であるということは、とてもよく理解できます。

 改めて「社会」とは何かと調べてみれば、
 「人間の共同生活の総称。人間の集団としての営みや組織的な営み」(Yahoo辞書大辞泉より引用)とあります。
 それを踏まえるとこのケースにおける、患者の「要請」→偽医者の「処置」→患者の「回復〜感謝」→偽医者への「報酬」という共同生活の営みは、範囲は狭くとも「社会」として成り立っているように思われます。
 本作は寓話でしかありませんが、患者さんたちが求めている医療とは、高度な医療技術うんぬん以前に重要な、人間同士の信頼関係(社会活動の成立)なのではないか、という問題提起を、タイトルの「ディア・ドクター」に込めて、世のお医者さん方に発信しているように受け止められました。

 笑福亭鶴瓶という人は商売柄、人を笑わせたり、和ませたりすることに関しては、とても素晴らしい容姿や雰囲気を醸し出しますが、困った表情に関しては、こちらも困ってしまう不器用さが感じられました(演出の要望かも知れません)。
 ──おそらく、目の表情が出来ないんでしょうね(目は小さいんや、ほっといてくれ! とか言われそう)。TVドラマの「ブラックジャックによろしく」から、とても好感を持っています。

 本作で最も印象に残ったのは、もちろん八千草薫さん!
 あのお年まで(78?)「可愛らしさ」を感じさせてくれる姿には、男女を問わずあこがれるのではないでしょうか。

 出演者の項に名前を並べた方々は、皆さんとても印象に残っています。
 演出は、もっとズバッと行ってよかったのではないだろうか……

2009/07/02

剣岳 点の記

2009.6.30

 監督:木村大作
 出演:浅野忠信、香川照之、宮﨑あおい、仲村トオル

 CGは使っていないと、野生的カメラマンの印象がある木村大作さん(初監督)が豪語しているのですから、撮影は大変な苦行だったことと思われます。
 確かに景色などの映像は、それは見事で、役者さんの立ち位置にしても、観ている方が怖くなりますし、カメラ位置を想像すると、よくもそんな場所に機材を持って上がったものだ、と恐れ入ってしまいます。
 しかし映画とは「どう? スゴイ絵でしょ!」だけでは、観る者の心を動かすことはできません。
 ──木村さんは、黒澤明監督作品『用心棒』でのピント合わせで、黒沢さんをうならせたそうです。「大ちゃん」と呼ばれていた印象があるのですが、それは黒沢さんに呼ばれていたようです。何でもいっときはテレビによく出ていたそうですが、毒舌が不評で降ろされたとか。詳細は分かりませんが、そんな大口から実現した作品なのかも知れません。

 開巻に重厚さを感じる作品は久しぶり、と思っていたら客席から「東映(配給)なんだ」の声が聞こえました。
 せっかくの骨太な企画ですから(政府が語るのは骨抜きの方針)、東映縁故の実力派監督のツテを頼って、もうワンランク上を目指してじっくりと作ってもらいたかった気もしますが、「ちょっと、山登りは……」等の問題があったのかも知れません……
 まあ東映としては将来、宮﨑あおいに「なめたらあかんぜよ!」等と言わせるため、極道の道への勧誘程度に考えているのかも知れません(これ怒られるかなぁ?)。
 彼女がどアップの長いシーンがあるのですが、彼女の表情は揺るがない(自信に満ちている)まま続くので、頬に目が移り「あれは、できものか?」と無関係な部分に関心が向いていまうほど、魅入っておりました(褒め言葉のつもりです)。

 舞台となる剣岳から「富士山が見えるんだ」(素晴らしい光景)という感慨はありましたし、原作者新田次郎の小説『富士山頂』へのオマージュであれば理解できるところですが、「富士山の姿はここからも素晴らしい」と、見せる必要性があるのだろうか? と疑問に思いました。
 富士山は日本人の心の支えのひとつであり、本作は日本賛歌であるとの見解であれば反論はできませんが、ちと古いんじゃないだろうか……

 「点の記」というものを知っている方は、ほとんどおられないでしょう。
 山の頂上などに設置されている「三角点」(国内を網羅する位置情報を定めた標識)の石柱は、その地域に大規模な建造物等を造る工事等の位置情報(緯度・経度・高度等の座標情報)の「基準」とされます。
 点の記(点とは三角点)には、その三角点設置の経緯および、日付、従事者名や、場所の詳細見取図等も含まれます。
 測量業務においては、現場周辺にある三角点の点の記の写しを必ず持って出かけます。
 見晴らしのいい山の頂上付近にあればいいのですが、現地の状況によっては見つけにくい場所にある場合もあるので、点の記は必需品になります。

 映画の感想文の中でこんな事を書いては失礼になりますが、こういった題材を小説にしてきた新田次郎さんの心意気に、こちらの心が震わされる思いがしたので、再読してみたいと思っています。
 TVCMではありませんが、現代の日本人が見失ってしまったものは、まだ新田さんの小説の中に息づいていると思います。


 追記──原作を読みました。高校生時分だったか、新田次郎さんの本を読んでいた頃に感じた、山男たちのすがすがしさ、カッコ良さ、男らしさにあこがれた気持ちが、よみがえってきました。
 原作の素晴らしさを感じながらも、読みながら映画の素晴らしい景色を思い起こしていました。
 双方が混然となって、記憶に残っていくのだろうと思われました。

2009/04/22

ニセ札

2009.4.17

 監督:木村祐一
 出演:倍賞美津子、段田安則

 戦後間もないころ、山梨県で実際にあった偽札事件を題材にしているそうで、企画の着眼点としてはとても素晴らしいと思うのですが「どこを切っても中途半端」という印象を受けました。
 「国が発行するお札も紙切れ」といった認識を芽ばえさせる、戦後混乱期の国家に対する不信感が描かれないないままに、物語の動機として、犯罪者の悪巧みに庶民が乗せられる構図というのは、どうにも受け入れがたいものがあります。
 まるっきり逆の、庶民の苦しみを代弁する形で犯罪に手を染めてしまうも、その罪をかぶって罰を受ける、という物語りであると勝手に思い込んでいました……

 先日、倍賞千恵子さんを拝見させていただき、続いて倍賞美津子さんをと、期待しておったのですが、残念。
 美津子さんはもう貫禄の存在感を示してくれるのですが、演出が美津子さんの演技を妨害しているんじゃないの? と言いたくなりました。
 「芸人のさが」なのかも知れませんが、もっとストレート(素直)に撮ればいいのに……

2009/03/27

ホノカアボーイ

2009.3.23

 監督:真田敦
 出演:倍賞千恵子、松坂慶子、喜味こいし、正司照枝(若者は省略)

 この文章には、映画を評するたぐいの言葉はありません。
 映画館での上映時間を、この作品を作った人たちと「時間を共有」できたことに対しての、お礼というたぐいの言葉になるのだと思います。
 この映画では何にも起こりませんし、この世の何が変わるとも思えない時間が過ぎていきます。
 それを誰かが「至福の時間」と言ったなら、わたしは無防備とも見えるような表情で微笑むのではないかと思います。

 失礼に当たるかも知れませんが、倍賞さんの可愛かったこと!
 柴又で見かけないと思ったら、パーマかけてハワイに移住してたんですね。
 寅さん以降、スクリーンであまりお会いできなかったのですが、『ハウルの動く城』で若い声を演じてその気になった(?)のか、(失礼は承知でも)恋する乙女のように振る舞う姿なんてどれくらいぶりになるのでしょう? とっても素敵な姿でした。
 「あんなに可愛らしい役をやってみたい」と言いそうな代表として吉永小百合さんの名前を挙げますが、ベテランの女優さんだったらそんな風に思うのではないか? そんなチャーミングな人物像でした。

 若者たちはみな(岡田将生、長谷川潤、蒼井優 等)迷える子羊たちで、それを見守る年長者たちはみな「天使」であったように思えます。
 ──「年老いた天使がいちゃいけないの!?」

 先ほど「至福の時間」と書きましたが、地球上の時間はどんな地であっても同等に刻まれていくので、わたしたちも等しい時間を過ごしているはずです。
 それでも違うと言うならば、この映画の舞台はこの世では無いことになります。
 「天国に一番近い島」や「神々が棲む島」などと言われる場所では、ひょっとすると「違う時間が刻まれている」のかも知れません。
 でもそれは、そんな場所があって欲しいと望み、夢見る人が多いということの表れなのかも知れません。

 新しい刺激などは与えてくれないとも思いますが、この作品を観ている間くらいは「おとぎ話」に付き合ってもいいのではないか? と思える、オススメの一本です。
 ほのぼの涙が止まりません……

 ホノカアとはハワイ島にある地名で「あんな町もあったかも知れない」と思える、のどかそうなところです。
 ──車をかっ飛ばして一周しただけなので印象は残っていません……

2009/03/10

カフーを待ちわびて

2009.3.4

 監督:中井庸友
 出演:玉山鉄二、マイコ

 「カフー」とは母音が「a・i・u・i・u」となる沖縄言葉(ウチナーグチ)の表現なので、「a・i・u・e・o」である大和言葉に直せば「カホー」(果報は寝て待て)となり「良い知らせ」「しあわせ」の意味も含まれると物語では説明しています。
 ──「沖縄そば」を「沖縄すば」と話すのを聞いたことありませんか?

 わたしも観る前「果報は寝て待て」という言葉を想起し、琉球に伝わる、良きことも悪しきことも「ニライカナイ(神様の棲む世界、生命の源、死者の魂がたどり着く世界、その魂が神に生まれ変わる世界)」からもたらされる、という言い伝えを題材にしているものと考えていました(蒼井優ちゃんの『ニライカナイからの手紙』という映画もありました)。
 確かにその祈りは込められているのですが「ありがちなストーリー」に収束してしまいます。
 それはおそらく、舞台を別の町に置き換えても成立してしまうような「土着性」が欠如しているからと思われます。
 それは絵からも見て取れてしまい、あれはどう見ても離島には見えない舞台からすでに、欠点となっています。
 非常に特徴的な伊江島の姿をバックに写してはロケ地が特定出来てしまいます(本部半島は静かなところであるよねぇ、と)。

 玉山鉄二は「イケメン」と思っていたのですが、アップになると結構すきのある顔立ちでもあったので、好感度アップと言うよりちょっとガッカリです。
 『山のあなた 德市の恋』でのマイコは存在感があったように思えたのですが、それは演技ではなかったようです。
 アップを使いすぎては演技者の素が暴露されるだけで、演技力のない役者たちからは魅力も感じられないという、悪い演出の手本のような出来と思われました。

  さぁ、気を取り直して!
 いい映画との出会いを待ちわびて…… います。

2009/02/18

悲夢

2009.2.12

 監督:キム・ギドク
 出演:オダギリ ジョー、イ・ナヨン

 この監督、時折儒教的なエピソードを差し込んでくると言うか、東洋思想に立脚した創作活動をしている人で、見方によっては説教臭く感じるかも知れませんが、わたしは心地良く鑑賞できるので、韓流ブーム以降では韓国唯一の要チェック人物としています。
 本作では儒教(孔子を始祖とする教えで、五常(仁、義、礼、智、信)に尽くすことで、五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)を得るとする道徳観念)ではなく、荘子(そうじ)の思想の代表的な説話である「胡蝶の夢」(夢の中で蝶として楽しんだところで夢が覚める。さて、夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て自身となっているのか)をモチーフにしているとのこと。
 荘子は孔子に批判的という印象もありますが、ルーツを否定するものではないと思われます。
 ──映画の感想文なんだから、別に説明しなくてもいいのにね……

 自分の見た夢が、悲劇という形で現実に起きてしまったら、気持ち悪いというか、少なからず罪悪感を覚えてしまうのではないでしょうか。
 潜在意識にあるとは言え、就寝時に見る夢をコントロールできない生き物に潜んでいる、ひとつの凶暴さの表れと言えるのかも知れません。
 しかし本作では、戒めというよりも悲劇に突き進むベクトルへの力が強すぎた印象がありました。

 この監督の東洋思想へのこだわりと、現実の不条理に向けられた視線というものは、ひょっとすると「東洋のシェークスピア」的な作家になるかも知れない、と思ったりします。
 不信心な日本人には、望むべくもない期待ですが……

2009/01/21

禅 ZEN

2009.1.15

 監督:高橋伴明
 出演:中村勘太郎、内田有紀

 冒頭での、死にゆく母がまだ幼い道元に向かって問いかけた「死後にたどり着ける浄土ではなく、この世で生きている間に、苦しみから人々を救う道はないのか」の言葉に表されているように、道元の求めた禅という教えは実に簡潔明瞭で分かりやすい。
 道元が日本に広めた曹洞宗では、只管打坐(しかんたざ)=ひたすら坐禅することにより、自己と大宇宙の物心一如、心身一体のあるがままのあり方とされる「即心是仏」(心に仏が宿る)に至ることが目的であると説きます。
 「世の中には多くの誘惑が存在すること」「奇跡はあり得ないこと」「目に見えるものを現実として受け入れること」等と対峙(たいじ)する勇気を持ち、自己と世界を超越することで万象のあり様を知ることができるとし、そこには、死への恐怖や、生きる苦しみが存在しない「仏性」が宿るはずである、と。
 ──それならば、死後ではなく生のある間に可能であるように思えます。

 「無の表情」や「言葉のない会話」(これでは伝わりませんよね。「無(迷いの無い)心」を読み取るコミュニケーションです。説明するための表現とすれば、テレパシーのようなもの? です)等は見事に響いてきましたし、「坐禅の姿」にも美しさが感じられ、その姿にこそ仏が宿っている、といわれても疑問を感じることなく、こころのやすらぎを見てとることができました。

 経典や、仏像が存在しないところが「修行を唱える教え」らしいあり方のように感じられましたし、道元自身も、はるばる宋まで行って、印可(いんか:お墨付き)だけをいただき、手ぶら(仏具などのありがたそうな具象物を持たず)を納得して日本に帰ってくるという精神性にこそ、信頼できるものがあるようにも感じられます。
 ──禅宗という宗派は存在しないのだそうですが、同じく禅を唱える臨済宗も当然のように「ご本尊は決まっていない」のだそうです(あらゆる事象を対象とするため)。曹洞宗との違いとして臨済宗には、公案(こうあん)という「禅問答」と言われる悟りを開くための課題が与えられ、クリアした者は階級が上がるという階級社会的な決めごとがあったそうです(だから政府にもてはやされた)。

 なるほど、都にこだわろうとしない道元の姿勢がとても理解でき、地方都市の庶民たちに広まった理由が良く理解できた気がしました。

 昭和の異端児的な印象すらある高橋伴明監督(関根恵子の旦那)が、道元の映画を撮るなんて想像すら出来ませんでした。
 おそらく、彼の心がやすらぐきっかけがあったのでしょう。華道家の生まれで、現在京都にある大学の教授だなんて、驚き……

 まるで映画の感想になっていませんが、宗教家が主人公となる物語の映像化は難しいだろう、という印象が変わることはありませんでした。
 以上。

2008/11/30

ブタがいた教室

2008.11.28

 監督:前田哲
 出演:妻夫木聡と26人の子どもたち

 「そもそも、なぜ学校でブタを飼う必要があるの?」(実話で、テレビでもドキュメント等が放映されたそうですが、知りませんでした)
 PTA会合の場でそんな話しをしたなら、即刻却下されるであろう提案を、クラスの合意として子どもたちは受け入れます。
 その「みんなで決めた」という前提がなければ、この物語は成立しません。
 「みんなで育てて、みんなで食べよう」と提案した教師は、「ブタを体でドーンと感じる」「生き物を育てること」「自分たちの食べ物」についてみんなで考えるつもりが、ブタと子どもたちと一緒に生きることになります。
 それは別れがあることを意味しています。
 この作品の評価されるべき点は、「残飯をあさる」「帰宅した子どもが臭い」「ブタの世話のために学校へ行く」等、周辺部のエピソードを短く処理し、クラス全員で育ててきたブタとの別れ方について、子どもたち全員で思い、悩み、討論する姿を延々ととらえ続けたところにあると思います。
 子どもたちの意見に対して「正しい」「間違い」ではなく、「真剣に考えている姿勢」を受け止めるべきではないかと、ここは演出ではなく子どもたちの懸命な態度にこころ打たれます。
 最後の最後まで、きちんと子どもたちの行動によって収拾を付けさせようとする教育者の姿勢もまたとても大切なことであるし、「自己責任」と「他人への落とし前(失敗や無礼等の後始末)」そして「ブタ(生き物)に対する思い」を、自分たちで決断し、納得していく子どもたちにとって、大きなテーゼとなっていたことが伝わってきます。
 わたしも含め、生き物を育てる等の経験が無いままに「おいしければ手放しでよろこび」「腹が減っては…」と、生きるための燃料としか感じていない大人たちこそが、向き合うべき問題であることに気付かせてくれます。
 子どもを理解するには(大人同士も同じはず)、共に考え、悩むことでしか気持ちは通じないであろうし、教育とはそういう場を提供してそこに一緒に参加することであろうこと(ホント、社会も一緒)、こころに響きました。
 そして、考えて、泣いて、悩みぬいた末に「先生!」と、すがるようなまなざしで頼られたとき、大人たちはその気持ちを受け止めてやる度量を持ち合わせている必要があります。
 わたしの錯覚であれば(期間をおかずに撮影していたならば)きっと最高の褒め言葉になると思われますが、映画の最後で子どもたちが成長しているように見受けられたのは、演出の勝利と言えるのではないでしょうか。
 ラストもきちんと26人全員登場させたのも拍手です(数えちゃいました)。

 熱血学園モノでないだけに(問題は「ブタ」だけ)、発散できる場面(見せ場)の無い役どころながら、ブッキーは落ち着いて好感度をアピールしていました。来年は大河ドラマに期待しています。
 26人の子どもたちに何か賞をあげたいと思うくらい、泣かされました……
 作劇でよく耳にする言葉は、こうでしたっけ?
 「ブタと子どもにはかなわない」。

2008/11/24

櫻の園 ─さくらのその─

2008.11.21

 監督:中原俊
 出演:福田沙紀、寺島咲、杏、はねゆり
   (覚えられそうもないので、出演者のメモとして並べました)

 『櫻の園』(同じ中原俊監督)と言えば、1990年公開(そんな昔になるの?)の、中島ひろ子、白島靖代、つみきみほたちの姿がとても印象に残るもので、ひらたくいってしまうと「女子高の学芸会顚末記」なのですが、「これから女を磨くのよ」というような、開きかけの桜のつぼみのような趣があったと思われる(勝手にね)、春のまどろみのような作品だった印象があります。
 最近テレビで、すっかりしあわせ体型(でしたっけ?)になった中島ひろ子に驚き、まばたきして確認し直したこともあって、今回の映画が気になったようなところがあります。
 18年がたち、主役の3人はいま? と調べてみると、みんな結婚して、中島ひろ子はテレビ・映画で活躍中、白島靖代はプロ野球ヤクルトの土橋と結婚したって?(活動休止中)、つみきみほは舞台中心に活躍中で、皆さん花を咲かせているようです。
 でもさぁ、出来の良かった作品の二番煎じに満足することは少ないんだから、よせばいいのに〜♪(古い?) ねぇ。
 ──助監督の欄に、冨樫森(『ごめん』監督)、篠原哲雄(『深呼吸の必要』監督)の名前がありました。へぇー!

 制作者側は、リメイクではなく「リ・イメージ」として新作に望んだといいますが、再挑戦した意図すら伝わってきませんでした。
 前作では思春期周辺の「反抗心」であったものを、現代向けの「行動力」としたかったであろう気持ちは理解できますが、ゲームじゃないんだから、立ち向かっていく姿勢を示せば、若さがはじけるとでも思ったのだろうか?
 紙で桜吹雪を演出し「もいちど花を咲かせましょう!」と胸を張りたいようですが、彼女たち自身の花が咲きそうに見えてきません。
 ラストの記念撮影のシーンが本作にも登場するのですが、前作には遠く及びません。
 前作はあんなにも素晴らしかったのに… と、消化不良を起こしたので、翌日レンタルで旧作を見直しました。
 次回は「あれから20年」(30年ではキツそうなので)あたりで、中島ひろ子たちの『櫻の園─同窓会』的な展開をみせてもらいたいと、思ったりもします。
 「でも、衣装どうするのよ?」となるのも困るので…… 失礼しました。

2008/11/14

夢のまにまに

2008.11.11

 監督:木村威夫
 出演:長門裕之、有馬稲子、宮沢りえ

 映画美術の重鎮である木村威夫さんが、90歳にして初めてメガホンを取ると聞いて、それを無視できる日本映画ファンはおるまい(I think so.)。
 しかし何がそうさせたのだろうか?
 戦争を経験した映画屋の使命感と言うのか、自分の表現で戦争を語らずに現場を離れることはできなかった、ということではあるまいか。
 社会が病んでいた時代といえる戦時中と、人間が病んでしまう時代といえる現代が、監督自身が最も恨めしく感じていたと思われる「青春時代の喪失感」に焦点を当てて、平行して描かれていきます。
 生き残った人々は、がれきの上でも根を張り成長していく樹木のような生命力を持ってはいるものの、傷ついた樹皮に消えることなく残り続ける「こぶ」のように、かけがえのないものを心からえぐり取られた傷跡を背負って生き続けていくしかない、と言うかのような痛みが伝わってきます。
 語り口は、タイトルのようにとりとめはないものの、主観の定まった散文のようで、とても映画らしい表現と思います。

 映画の美術監督とは、スクリーンに映し出される空間を作る仕事で、ジブリ作品の背景画を描いている男鹿和雄さんのような方、といえば通じるか?
 木村さんの場合は、ちょっと誇張が過ぎていたり、シュールだったりするのが特徴で、何といっても鈴木清順監督と組むと、歌舞伎の舞台セットか? と思うほどかぶいたり(奇抜)しちゃうのですが、もうそこに視線が釘付けで、目が点ですから、一度観たら忘れられなくなってしまいす。
 1972年に日活を辞めてフリーとなってからは、熊井啓、黒木和雄両監督をはじめ、時代を代表する監督の作品を手がけており、ちょうどわたしが映画を観はじめたころと重なり、木村美術を観て育ったと言っても過言ではない気がします。
 お元気でご活躍されますことを!

2008/11/08

その日のまえに

2008.11.6

 監督:大林宣彦
 出演:南原清隆、永作博美

 角川映画+大林宣彦監督作品、そして「A MOVIE」で始まるといえば、昔からのファンは胸騒ぎがしてくるのではないだろうか。
 ご察しの通り「泣ける小説」として評価が高い(らしい)重松清の原作を、大林ファンタジーにしてくれちゃいました。
 オープニングクレジットの脚本の下に「撮影台本」とありました。
 目にした瞬間「やっちまったかな?」と苦笑い。
 この1行でこの作品の感想は伝わったことになってしまいます。
 (これは、撮影現場での思いつきなどで、脚本を無視した大幅な改編を行ってしまったことを意味します。いい方に転べばいいのですが……)
 現場でやりすぎた反省からクレジットを出したのかも知れません……

 原作に引かれて観に来たお客さんは、きっととまどったのではないでしょうか。
 本人と家族が「その日のまえに」抱く不安感を少しでも軽減することは可能なのか?
 そして、残されたものが「その日のあとに」現実を受け入れて生きていく姿から、勇気を分けてもらうために観に来たお客さんに対して(みなさん『おくりびと』を期待している時節でタイミングが悪かった)、「映画はファンタジーです」と言われたのでは、そりゃ怒りますよ。
 それが、角川映画+「A MOVIE」であると言うならば、大林健在の証明とでも言うのか、今後に期待しちゃうのですが……

 宮沢賢治の世界との融合を目指したかったようですが、それはそれで別の機会にゆっくりとやってもらいたいと思うのですが、そんな機会自体が減ってきているのだろうか?
 まだ、70歳ですもん。応援していますよ!

 P.S. この前に『容疑者Xの献身』を観ちゃったのですが、コメントは控えさせていただきました。

2008/10/25

しあわせのかおり

2008.10.23

 監督:三原光尋
 出演:中谷美紀、藤竜也、八千草薫

 金沢の町の片隅で、ほそぼそと中華料理店を営む年老いた中国出身の料理人。その味に魅せられたシングルマザーが弟子入りして、味を受け継いでいくというヒューマンドラマです。
 本作の最大の魅力は、悪意が存在しないこと、と言えるのではないでしょうか。安心して観ることが出来るって大切です。
 一般的に師匠と弟子の関係は「疑似親子」と言えると思いますが、ここでも師匠にとっては娘を、弟子にとってはほのかに恋していた父親を、料理を通して求めていたのかも知れません。
 こころの通い合った師匠と弟子の共同作業には、男女の共同作業ゆえに生まれる色気や恍惚の瞬間が映し出されている、とすら感じられます。
 そこから作り出される料理がおいしくないはずがありません。
 料理が作られていく過程というのは実にスリリングで、観る者の創造力をかき立てることができたなら、もうそれだけで成功です。
 観る側も、食感や味覚に思いをめぐらせることでしあわせを感じられますし、それを求めて観に来ているのですから。
 鉄則通りスープ作りから始まるのですが、それを目にした瞬間から口の中の分泌液が増えるのを自覚してしまいます。
 それが実際口にはいるか否かは別問題ですけれど……

 どアップが多用されていますが、そのサイズで自分をさらけ出す演技の中谷美紀を撮ると、彼女の骨の形が見えてくるような錯覚さえ覚えます。
 ──褒め言葉のつもりなら「魂」くらい言えないのかね。

 個人的な要望ですが、せっかく金沢が舞台なのですからもう少し地元サービスしても良かったのでは、と思ってしまいます。
 ですが『村の写真集』(徳島県)に続き地方都市を舞台にした小品を、企画し撮影した心意気には拍手とエールを送ります。
 あまり見かけない藤竜也が前作に続いて出演していますが、監督とはイイ関係のように見えました。

 とても分かりやすく、そして誰もが同じように楽しめる映画だと思います。

 P.S. 八千草さんが画面に登場するとこちらの表情がゆるむのは、存在感ですよね。それって、わたしだけだろうか?