2009.10.15
監督:根岸吉太郎
脚本:田中陽造
出演:松たか子、浅野忠信
ファーストシーンの、主人公である浅野忠信が暗闇を駆けてくるシーンには、いきなり食いついてしまう迫力がありました。
作品テーマのようなシーンですから、力が入っていたようです。
原作者である太宰治の、生誕100年という節目に企画された作品なので、本作の製作意図には「太宰の人物像を多角的な視点から浮かび上がらせる」ことが、念頭に置かれているようです。
本作では、表題作に加え「思ひ出」「灯籠」「姥捨」「きりぎりす」「桜桃」「二十世紀旗手」等の作品からもエピソードを抽出(公式ホームページより)することで、太宰像をあぶり出そうとしています。
タイトルまでは記憶していませんが、覚えのあるイメージが散りばめられており、詳しくないのですが、わたしなりの太宰像に近しい印象を受けました。
監督の思いも強かったと思われますが、その功績は脚本の田中陽造さんの力によるものだと思われます。
この方の成功作『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)等では、妖術(?)を使って脚本を書いているのでは、と思われるような、不可思議な世界が造形されるので、怪しいと思いながらも引き込まれてしまう、ワンダーワールドが繰り広げられていきます。
また、監督も脂がのっているようで、近作の『雪に願うこと』(2005年)、『サイドカーに犬』(2007年)は共に印象に残っていますが、本作では風格すら感じさせられました。
不道徳とされる問題を次々に起こす夫を、懸命に支える妻の「何事も受け止める包容力」には、心を揺さぶられます。
どんな存在であっても救うことのできない人物でありながらも、妻に背負わせた不道徳すらも「心の闇」に吸い込もうとする太宰に対して、妻が差し伸べる「生きていればいいのよ」の言葉で終わらせたのは、見事な終幕であったと思います。
しかし、ここに描かれているのは太宰治であると認識しているわれわれは、それでも太宰は死を選ぶという「映画には描かれない結末」を、心の中に持ち合わせています。
結局作者側(監督・脚本)は、ポジフィルムでは太宰治という「心の闇」を描くことはできないことを、白状しているように思えます。
本作のテーマは、エンドマークの後で観客自身に、この物語をネガフィルムに反転してもらうことなのではないか? とも思えます。
しかしそれは、物語が完結できていないことの裏返しでもありますが、現在でも新たな読者を増やし続ける「心の闇」という身近なテーマを、映画で訴える手段としては、かなり近しいものに思えます。
──ネガ・ポジの例えを用いるのは、とても古くさい表現だと思いつつも……
そんなスタッフに比べ、演技陣には物足りなさが感じられます。
松たか子(彼女は舞台向きの役者ではないか?)の懸命な姿勢は見て取れるのですが、内面から伝わるモノが感じられませんし、浅野忠信には近ごろ、小手先でこなそうとしているような薄っぺらさが感じられます。
監督に要求されるものが、とても難しいことは理解できますが、妻夫木聡のように懸命な姿勢が見たかった気がします。
ヴィヨンとは、高い学識を持ちながら悪事に加わり、逃亡・入獄・放浪の生活を送った、フランス中世末期の近代詩の先駆者フランソワ・ヴィヨンのこと。無頼で放蕩な人の例えとして使われている。(公式ホームページより)
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