2012/12/03

北のカナリアたち

2012.11.23

 監督:阪本順治
 撮影:木村大作
 脚本:那須真知子
 出演:吉永小百合、森山未來、満島ひかり、勝地涼、宮﨑あおい、小池栄子、松田龍平、柴田恭兵、仲村トオル、里見浩太朗


 本作が目指したであろう「日本映画ここにあり!」の主張が、きっちりと伝わる作品である。
 テーマは「世代間のたすき受け渡し」で、創立60周年の東映は「今後も若い人材を育てていく」覚悟を示そうとしたのであろう。
 その意図は、豪華なスタッフ・キャストを率いる作品演出に指名された、阪本監督の覚悟により結実したように思える。

 推理小説的な物語展開で、同じ場面を各人物の視線からの異なるアングルで見せる絵作りの生かし方(立体視的視点)、出演者が自由に振る舞える舞台を設定し、伸び伸び演じさせようとする阪本演出のメリハリには、現在「日本映画監督のエース:原田芳雄が遺作『大鹿村騒動記』に指名した」の力が感じられる。
 その『大鹿村〜』の演出経験が、取り組みに対する覚悟を変えたのでは? と感じるほど本作には「どっしり」とした存在感がある。
 とても「日本映画らしい作品」であり、記憶に残るであろうインパクトを受けた。

 演出と切り離せない「冬の海」の迫力はとんとごぶさたの感があり、さすが木村大作カメラ(『劔岳 点の記』の監督)と拍手! しかし、後継者は大丈夫なのか?

 こちらも久しぶりの印象がある脚本の那須真知子も、核心部に触れるまでの緊張感の持続は見事で、特に前半は脚本の力にグイグイ引っ張られる印象があり、感心させられた。

 吉永小百合さん(地味な化粧でも引き込まれる67歳!?)は「受け」の演技で輝きを放つが、そこにしたたかさを秘めた本作の人物像は、彼女向けに構築された印象すら感じるほどのはまり役(どうしても出てくる『細雪:1983年』雪子役を超えたとも)。
 若者たちの体格が大きいため、小さく見える姿からにじみ出る年輪に現実味があり、生徒役の現在一線で活躍する若手役者たちが、小者(子ども)のように見えてくる。
 森山未來、満島ひかり、宮﨑あおい、松田龍平らも、吉永さんの前では「変なことはできない」と、観念したように見える対峙場面はどれも見せ場だが、その実を吉永さんが全部総取りしてしまう、貫録の痛快さ!(それがスターの姿で、小者たちには芸の肥やしとなる)。
 演出・脚本たちが結末を秘めながら積み重ねた作業は、観客が期待する吉永さんという存在に収れんし「スターの本領発揮!」の場面にバトンが渡される。
 吉永さんの、教え子を守ろうとする「覚悟」「信念」に接し、先生を注視する教え子たち(=観客)は感銘を受けることになる。

 近ごろの吉永さんに対する演出は、あの人しか持ち得ない「オーラ」を消そうとするばかりだったが、本作演出の「それを何とか写したい」との狙いが成功の要因に思える。

 子どもたちの「心の支え」となる人物として、吉永さんを設定した狙いは成功であり、現代版『二十四の瞳』(本作は十二の瞳)の随所から、木下恵介監督、高峰秀子さんを想起するも、比較して決して引けをとらない出来栄えとなっている。

 健さん同様、背負わされたものに耐えながら道を見いだす人物像を応援したい気持ちは変わらないが、演ずる人が不在となれば、そんな「愛すべき生き様」にこそが日本人の美しさがある、と受け止められる時代が終わってしまうような気がしてならない。
 健さん、吉永さんともに映画に捧げる人生を歩んでくださいますよう。
 われわれは、見届ける義務をまっとうします!

2012/10/03

ライク・サムワン・イン・ラブ

2012.9.28

 監督・脚本:アッバス・キアロスタミ
 出演:奥野匡、高梨臨、加瀬亮

 こんな夢「キアロスタミが日本語で映画を撮ったら?」は実現不可能と想像すらしなかったせいか、実際に接した第一印象は「めんどくせー」に尽きる。
 これまでの彼の映画にも「まどろっこしさ」は付きものだったが、それは言葉や習慣の違いから咀嚼(そしゃく)できないものと、理解を放棄するいい訳としていた。
 しかし本作では、いちいち言葉がつまる理由や、あいまいな態度の裏側まで理解できるため、「うんざりできる満足感(?)」がある。
  これまでの作品でもディテールを積み重ねていたことの裏が取れ、とてつもない労力の上に成り立っていることを、初めて納得できた気がする。

 そんな再認識はつまるところ、監督が人々を見つめる視線に引かれる、自身の嗜好(しこう)を再確認させられたわけで、またも見事に術中にはまった印象がある……

 キアロスタミはこれまでも、決して視線が交わらない舞台装置として、自動車の車内を好んで使用してきた。
 『そして人生はつづく』(1992年)では、地震の被災地を訪ね回る心細さをひとりの絵で、『桜桃の味』(97年)では、自殺の手助けを求める主人公とそれを断る助手席との二人の絵を、『トスカーナの贋作』(2010年)では偽物夫婦の並ぶ絵があった。
 本作では、後部座席にも座らせ三人の視線が交わらない構図を生み出している。それは、これまで以上に複雑な人間関係を表現するためとも見えるが、シンプルに受け止めれば「病的な関係」の表現手段であることに気付かされる。
 構図としては、若い娘を奪い合う老人と青年という図式だが、全員がそれぞれに虚像を演じていたとすれば、末路は明白になってくる。

 「好きではない対象」でも観察してしまう自分(好きではない理由を納得したい)でも、決して人間嫌いにはならないことを気付かせてくれた思いがし、自分の中で彼のライブラリのエポック的存在となる気がする。

2012/09/23

あなたへ

2012.9.16

 監督:降旗康男
 脚本:青島武
 出演:高倉健、田中裕子、佐藤浩市、草なぎ剛、余貴美子、綾瀬はるか、大滝秀治、長塚京三、原田美枝子、浅野忠信、ビートたけし

 近ごろは日本映画を観るたびに、さみしさばかりを感じてしまう。
 映画と出会いのめり込み、四隅まで見逃さぬようかじり付いた銀幕(スクリーン)で活躍された方々もお年を召され、現役でおられる姿を「いとおしむように」拝見をすることが、申し訳ないというか悔しくてならない。
 現に、大滝秀治・高倉健の共演はこの先も観られるだろうか? と思うと、胸が詰まる……

 実に見事すぎる「健さん映画」(「寅さん映画」に通じる理解と同じ)で、「高倉健の背中」に何を、どう背負わせるべきなのかを脚本・演出は承知しているので、物語が進むにつれ「健さんの背中」は観る者の期待通り、寡黙ながらも語り始める。

 キャストの配置と生かし方も見事で、出演者に名前を挙げた方々はもちろん全員素晴らしかったが、特に、若い綾瀬はるかの生かされ方は今後の自信になると思え、浅野忠信は物語を引き締めるポイントを作った印象として残る。

 各所でCGと思われる絵が目についたが、それは故意にむかしの合成風な演出をしたように思えた(CGを使うも「アナログ映画」を作る自負なのか)。
 勝手な想像だが、高倉健主演『八甲田山』(1977年)の撮影を担当した木村大作が、初の監督作品『劒岳 点の記』(2009年)をすべて実写撮影した事へのオマージュではないか? とも思える。
 同作の演出を依頼された降旗監督は健康上の理由から断り、やむなく木村が自らメガホンを取り、高倉健も「もう八甲田山はできない」と語る。
 実写にかなうものはない!(だが、われわれには実写にこだわる体力はない)との表現にも感じられる。

 健さんの映画をあと何本観られるのだろうか?
 劇場の予告編で目にした吉永小百合さんまでが、わたしの中の「銀幕のスタア」でありこの先はどうしたものかと……
 いま思うと、映画へのあこがれは、スタアだったり、才気あふれる先人への憧憬であったことを、この期に及んでようやく理解できた気がする。
 その灯がひとつひとつ消えてしまう近ごろは、わたしの映画への情熱もひとつずつ失われていくように思えてならない……

 「これが職人の造る映画だ!」の自負に敬服するも、ひょっとすると「もうこのような映画は観られなくなるのか?」という、現実が目前に迫っているような絶望感がある。


 追記
 NHKの「高倉健」ドキュメント番組2本を録画して、映画鑑賞後に目にした。
 そこでは「役者 高倉健」としての覚悟が語られているだけに、今後も数多くの作品で出会いたい! と切に望むばかりである……

2012/07/16

グスコーブドリの伝記

2012.7.10

 監督・脚本:杉井ギサブロー
 声の出演:小栗旬、忽那汐里、柄本明

 原作の映画化には読後の解釈〜再構築が重要だが、こと宮沢賢治作品には解釈を限定しない自由な発想が許されるため、他人の中傷から解放された「思いの丈」が表現される楽しみがある。
 それゆえ賢治に対する多くの「解釈」に接したいとの思いから、「宮沢賢治」の名前だけでもアンテナが反応するのだろう。

 宮沢賢治作品を起源とする「ワンダーワールド」には「正しい」「間違い」ではなく、「好き」「嫌い」と反応するはずが、わたしは久しぶりに何度もグッスリ眠る「夢見心地」となった。
 睡魔に襲われる瞬間、以前の『銀河鉄道の夜:1985年(27年前!?)』も同様だったか? の記憶をたどりながら……

 賢治の世界観に身を委ね悦楽を感じる者には、提示された世界を「新しい作品を読む」かのような情報源と感じる瞬間がある(未見だが『銀河鉄道999』にも刺激があったのか?)。
 「踏み台とせよ!」の意志が伝わるからこそ、そこに新たなイマジネーションが生まれ、連鎖の種子となるのであろう。
 「偉人」と思える賢治に身近さを覚えるのは、教師・指導員の経験による「語りかけ」と感じるからかも知れない……

 前作同様「猫」のキャラクターに魅力はあるが、それ以外の造形(キャラクターと演出)に対しては、稚拙・安易すぎる印象を受けた(本作に対する感想はここだけ)。

 タップリ寝たくせに悪い印象が残らないのは、宮沢賢治の世界に浸りながら夢が見られたことによるのだろう。


追記
 ここで書くことではないが、
 「グスコーブドリとはブドリという鳥の仲間で……」
 というジョークが、頭から離れなかった……

2012/05/28

わが母の記

2012.5.27

 監督・脚本:原田眞人
 出演:役所広司、樹木希林、宮崎あおい、南果歩、キムラ緑子、ミムラ

 これだけの役者陣をそろえて取り組む作品であり、普遍的テーマを描こうとする姿勢は伝わるが、舞台が昭和(希望のある)時代であることに「ねたみ」のような感情を覚えるのは、現在を悲観しすぎているか。

 涙はとめどなく流れるも、後に残らない物足りなさがある。
 ネタの羅列はあっても「調和が取れてない」印象からと感じる。

 役所広司が前面に出るのは当然でも、樹木希林と孫たちとの場面(ふれあいの場:宮崎あおいとの描写は説明的過ぎる)が物足りないため、彼女の人格を理解するのは役所だけという構図が、母親の独りよがりに見えてしまう。
 はなから娘たちを相手にしない母親と、長男の母への思いの強さは理解できるところだが……(長男を頼りにする母親像は『歩いても歩いても』2008年:是枝裕和監督作品で演じている)

 原作は読んでないが、原作者(井上靖)の思い入れがとても強いと思われる作品に、監督以下スタッフが従順すぎたのではあるまいか。
 「母が壊れていく」をテーマとしながら、親子・親族間の描き方が感情に頼りすぎた印象があるも、樹木希林が演じるゆえに成立する物語であり、観客が『東京物語』(1953年:小津安二郎監督)を求めるのは間違いなのは分かる。
 しかし本作の失敗は、樹木希林さんに演技要求ができなかったことではないか。
 例えとして正しいか分からないが、映画『八月の狂詩曲』(1991年:黒澤明監督)ラストの足元に及ばぬ、見せ場とならない状況を経ただけで、息子に背負われたくない(と思ったか?)欲求不満そうな表情に見えてしまう。
 彼女が「当たり前:自然すぎる」と感じてしまうのは褒め言葉でなく、演出が彼女から新たな面を引き出すことをせず「○○的な演技で」を要求したからではあるまいか?
 演技賞候補の筆頭には違いないが、それゆえもっと驚かせて欲しいとの思いが残る。

 宮崎あおいは、相変わらず表情の見せ方が上手と感心させられるも、その先を引き出せなかったのは演出の責任。

 南果歩ちゃんとミムラの「梅ちゃん先生」コンビは、役柄をわきまえ光っているので、これから活躍の場が広がるよう応援したい。

 泣かせばいいってもんじゃない映画の典型であり、実にもったいない出来という印象が残る。

2012/03/18

ALWAYS 三丁目の夕日 '64

2012.2.25

 監督・脚本:山崎貴
 脚本:古沢良太 、山崎貴
 出演:吉岡秀隆、堤真一、堀北真希、薬師丸ひろ子

 注目を集めての第3作も、期待を裏切らない娯楽作として「大いに笑い」「大いに泣ける」作品で、舞台設定の1964年からは時代背景と共に、当時の風潮であった「単純明快で楽しく、日ごろの憂さを晴らせる映画」の精神が受け継がれている。
 本作の取り組みには、今後の娯楽映画も原点を見直すことから、現代の新しい娯楽映画が生まれるはず、との提言にも受け止められる。

 映画館内には活気や満足感が満ちており、製作期間が2011年の大地震後まで及んだかは不明だが、現在の観客が求める「ツボ」を押さえており、暗いニュースの現実から一瞬でも逃れたい老若男女を、手招きして受け入れてくれる「夢空間」に感じられた(それが本来映画が持つ存在意義のひとつ)。
 64年当時を知る方たちは、現状の閉塞感打開のためには原点を見直すことが必要であると、再スタートのヒントを見いだせたのではあるまいか?
 日本という国や国民が元気で、みんなが「上を向いて」いたころの「希望」を再確認し、これからの「勇気」をひねり出そうとする現在にこれ以上なくマッチした題材への満足感から、観客は勇気を抱き帰途についたであろう。

 本シリーズには「悪意」は存在しないため、出演者側は気持ちよく演じられ、観る側も多くが不快感無く観賞できたのではないか。
 作品の出来ではなく、現在渇望される「娯楽作品」であったことが、本作およびシリーズの成功理由と言える。

 時代背景に付いていけなくても、堀北真希ちゃんの「旬」(いまこそ、と思う)のかわいらしさは感じられたのではないか。
 普段からおっとりした印象の彼女が、青森弁を話すことで生まれる空気感が彼女の魅力を増幅し、3作目でイメージが定着しているとはいえ、彼女の活動の中でも「はまり役」として記憶されるであろう。

 また、冒頭では前作から5年の間に成長した若者たちを判別できず「役者を変えたのか?」とすら思ったが、一平と淳之介が以前の彼らであることに気付き「そうあるべき」とともに、淳之介役に須賀健太を選んだことに「役者を見る目を持っている」と感心させられた。
 彼は以前から思いを内に秘める役柄をこなしてきたが、本作の思いを打ち明けるまでの「ため」の演技の凄みには驚いたし、ここまでの演技ができる子役として1作目に彼を選んだとしたら、その目は見事だったと言うしかない(成長していることは確かだが)。

 前作で、冷蔵庫の普及から仕事を失いそうな「氷屋」が、自動販売機の前で見張る姿は、当時は販売機にいたずらする者や、たたいたり、け飛ばすと、商品がゴロゴロ出てきた(直接的表現では広告主は嫌がるし、それを利用した)表現のようで、キャラクターも生かすうまい表現法である(悪意はなくとも=出てこなかったりした、身に覚えがあるので大爆笑!)。

 このシリーズは、本作で終了と耳にした。
 こんなにも幅広い客層の支持を受ける作品は「寅さん」以来で、まだ復興には時間がかかるため観客から続編を望む声があがるのではないか。
 創作活動ではあるも商業活動であると考え、「復興支援」として続けて欲しいと願う気持ちは確かにある。

 将来「この映画から勇気をもらった!」と、エポックとされるような映画になるかも知れない……

しあわせのパン

2012.2.12

 監督・脚本:三島有紀子
 出演:原田知世、大泉洋

 「映画女優」の定義を議論するつもりはないが、原田知世という人は映画デビューで注目され、そのまま映画界のアイドルとなった。
 映画界で育つことで「スクリーンを支える力」を身に付けたことから、「映画女優」との認識があり(次の世代は宮崎あおい、蒼井優か?)、久しぶりの主演作に足を運んだ。

 しかし演出は、冒頭に盛り込んだ絵本のエピソードで「これはおとぎ話」と宣言するも、観る者を「おとぎの世界」にいざなおうとせず、監督の少女趣味的なご都合主義の世界を展開させてしまうため、観客との間に(監督の自己陶酔に入り込めない)大きな溝を生み出してしまう。
 しかも主人公夫婦は、演出側が目指したと思われる「雰囲気を描くこと」(これもおかしな目標だが)の「素材」にもなっておらず、しいていえば役者を「素材感」として北海道の風景にまぶすだけのレシピで終わり? と思うほど人格(現実味)が感じられない。

 本作の製作意図には、「北海道の知られてない面をアピールしたい」とあるので、画面を温めてくれる素材や料理が主役の映画であるはずが、役者は「具」どころか「ダシ」でもない「隠し味」程度にしか見えない。
 映画の具となる「ジャガイモ」や「ニンジン」はどこにあったのかも分からなければ、パンを焼く窯は屋外にあり「冬はどうするの?」も描かれない。

 本作でも「スクリーンを支える力」を見せてくれる原田知世を映画女優と感じさせるのは、「腹のくくり方」ではないかと思う。
 絵を造れる存在だから、笑顔がカワイイ、空気感を素材にしたい、などの浮ついた狙いだけで「素材」にして欲しくない思いがある(年取った! は仕方ない)。
 黒木和雄監督(遺作)『紙屋悦子の青春』の、決してうまくないが「こんなにも整った表情ができる女優さんはいない」という印象から、彼女は求められたものはクリアできる力を秘めた女優であると感じたし、NHK連続テレビ小説『おひさま』の主人公母親役では、戦前という時代の「モダンさ」を暖かく演じていた。

 秘められた力を引き出せる人材がいないために、持てる力を発揮できないという構図は一般社会同様と考えると、社会は膨大なパワーの損失とともに、その裏で持てる力とのギャップからストレスを生み出す「生産工場」のように思えてくる。

 薬師丸ひろ子に続いて、コマーシャリズム(売ることが目的の角川商法)の波に乗せられて登場した「映画アイドル」であるが、現在の庶民派的印象の薬師丸と、実生活との距離を感じさせる原田の存在は、当時の印象が逆転したような感もある。

 彼女は自身で作品選択をするにせよ、もっと「有効に」使われるべき「素材」と思えてならない。
 というラブレターとして……

2011/08/31

一枚のハガキ

2011.8.27

 監督・脚本・原作:新藤兼人
 出演:大竹しのぶ、豊川悦司、大杉漣、六平直政、柄本明、倍賞美津子、津川雅彦

 大変失礼な表現だが、あのギラギラとした生命力に満ちたオヤジが「最後の監督作品」と幕引きを宣言したのですから、最後まで見届けねばと足を運んだものの、その動機の9割以上は義務感、が正直なところである。
 などと強がるも、映画を観はじめて現在まで現役で活躍されるのは、新藤さん、山田洋次さん、東陽一さんとなった今、見逃すわけにはいかない思いがあった。
 ところが開けてみるとこれまた失礼ながら、思いのほかの素晴らしさに仰天されられる。

 近作ではカメラの動きに躍動感が感じられず、ドカッと腰を据えた演出が目につき、高齢のせいで動き回るのが難儀そうな印象があった。
 しかし本作では、観る者をうならすようなシーンが挿入されたり、動きを意識した演出がなされたことに、最後の作品への思いがあったのだろうか、その果てしなき向上心には「恐るべき99歳!」と完全に脱帽させられた。
 食べるものにも困窮する貧しい家に、ガラスのコップがあること自体おかしいのだが、そこに込められた「ガラスのコップで水を見せる必然性がある」との主張が、何の抵抗もなく受け入れられ「水の存在感」(1960年『裸の島』がここに生かされるか!?)から「あの水は生きている」とすら感じさせてしまう力強さには、往年のフィルムやスクリーンに魂をすり込むような生命力が感じられ、「監督の生きる力は衰えず」の気迫が伝わってくる。

 上に主な出演者を羅列したが、そうそうたるメンバーの誰もが見事としか言いようのない演技を披露しており、「新藤ラストムービー」に懸ける思いがヒシヒシと伝わってくる。
 特に大竹しのぶは、自分がもう演じられなくなるかのような熱演で、懸命な姿を新藤演出のフィルムに残したい一心で挑んだ様子がうかがえる。
 手の付けられない演技に込められた思いとは、その熱さゆえにしらけることもあるが、本作では監督とトヨエツが見事に受け止めたおかげで、観る者にはしっかりと「キモ・心」が伝わったことであろう。
 この先、大竹のような熱演を受け止められる監督はいるのだろうか? と、心配になるほど見事な「監督と女優の関係」であると思う。

 自ら幕引きを宣言し、高齢ゆえ観客もアンコールを求められない状況を整えた上で、晩年の傑作と言えるような作品を発表するところが、「新藤は最期まで衰えず」を証明しているようで、表現する言葉が見つからない……

 これが映画ですよね!
 ありがとうございました。

2011/07/20

大鹿村騒動記

2011.7.18

 企画・監督:阪本順治
 脚本:荒井晴彦
 出演:原田芳雄、大楠道代、岸部一徳、石橋蓮司


 原田芳雄が天上へと旅立っていった。

 自分が日本映画(いや映画自体)と向き合い始めた高校時代、そのスクリーンで躍動していたのは「薄汚く、粗暴で、欲望のままに暴れ回る」原田芳雄の姿であった(『竜馬暗殺』『祭りの準備』)。
 おっかなくて近づけないが、心根は隠せず(目元はとても優しい)、ユーモアに満ちたその姿が「ズドン!」と心に突き刺さったことは忘れようもない。
 それ以来、彼の追っかけでなくとも、マイナー(ATG映画等)な作品への関心が高まり、彼の出演作にも関心が向くこととなる。

 リアルタイムで観た、アングラ(マイナー)映画のひとつの頂点と思える『ツィゴイネルワイゼン』(鈴木清順監督:1980年)での、「そんな人物像は成立するものか?」と酔わされた衝撃は、今でも鮮明に思い浮かぶ。
 さまざまな格闘の積み重ねから、『父と暮せば』(黒木和雄監督:2004年)の演技には「人生の機微を演じる役者」の貫録が感じられ、「アウトロー」役出身者だから醸し出せる、年齢+αの包容力ある懐の深い演技を、これからも見せてもらいたいと期待していたのだが……

 数年前の大病から復帰したものの、趣味である鉄道関連のテーマでもTV「タモリ俱楽部」に出演がなくなったことから(以前は息子を連れて出演)、「残された時間は映画のために」の思いがうかがえる。

 本作の宣伝で「原田芳雄主演!」とうたっており、それを「なぜ? と感じた者は全員観に来い!」の告知と感じ、慌てて公開3日目に足を運んだ。
 一週間前のプレミア試写会に、憔悴(しょうすい)した体を無理押しして車いすで登壇した姿に息を呑み、応援したい思いで足を運んだが、その翌日悲報を耳にすることとなった。

 本作は原田芳雄の企画のようで、これまで現場を共にした監督たち(多くの方が旅立たれた)の中で、『どついたるねん』(1989年)から現場を共にしてきた阪本順治監督(現在最も信用できるとの意志ととらえる)に託される。
 その判断が、キャストの顔ぶれを見るだけで、原田や観客の期待を高める「現場」を生み出すこととなる。
 ATG映画時代からの盟友石橋蓮司、二人の再共演が観たかった『ツィゴイネルワイゼン』の大楠道代(大げさな照れのしぐさは年をとっても絵になる)、三國連太郎は近ごろ作品を吟味していそう、岸辺一徳はバッチリ! 等々。
 その見事さを考えると、監督は原田の覚悟まで心に秘めていたのではないか、と思えてくる。
 原田が満足できる現場を、仲間たちが囲んで「ともに楽しんだ」様子がうかがえる作品であり、本作を遺作にできた彼はある意味「幸せな役者」と言えるのかも知れない。

 本作のラストに原田芳雄が「アレ?」と空を見上げた瞬間、それは「天国からの声ではない!」と叫ぼうとした、わたしの心の声は届かなかった……

 ありがとうございました。

2011/05/02

トスカーナの贋作

2011.4.29

 監督・脚本:アッバス・キアロスタミ
 出演:ジュリエット・ビノシュ、ウィリアム・シメル

 キアロスタミの映画制作は、イラン国内では難しい状況にあることは耳にしていたが、本作は「表現の自由」を求めて別の国で撮影した最初の映画になる(フランス・イタリア映画)。
 イランはアジアに分類されるが、そんなイスラム圏から眺めたヨーロッパ圏の文化や人の営みの見え方なのだろうと、このけたたましい会話劇を受け止めた(イタリア語、フランス語、英語が交錯することから、ヨーロッパ全域が対象であると推測される)。

 原題は「Copie Conforme:認証された贋作 」で、映画という作り物の世界の中に虚構を作りたがる監督が好みそうな題材である。
 見知らぬ他人を演じていたとしても、他人が夫婦を演じていたとしても、元夫婦という設定であったとしても、愛の贋作は決して作ることはできない、とのテーマのようだ。
 贋作というものは、著名なオリジナル(贋作に対する本物)の持つ「知名度」を利用して利を得るための「手段」とされるが、どんな才能でも唯一実現不可能なのは「愛情」の模倣であり、もしその愛の贋作が完成したとしても、それはオリジナルになるのではあるまいか?
 トスカーナという地には、そんなロマンチックな記憶が刻まれていると、キアロスタミは読み取ったのかも知れない。

 虚実が混じり合う世の中でも、ふとしたしぐさから愛情が感じられ、互いに主張を曲げない言い争いがほほ笑ましく思えたりする、そんな行動こそがオリジナルであり、唯一の自己表現手段なのである。
 愚かとも思える自己表現を貫こうとするロマンチシズムこそが、世界を支える原動力となることを示している。
 終幕はいかようにも受け取れる幕切れだが、わたしは、結婚式でもヒゲを剃らない男が「ヒゲを剃った」ように見えたので、踏み出す決意で画面から消え、それを祝福する鐘の音が響いたと受け止めている。


 ご無沙汰のキアロスタミだが、諸事情から祖国での映画制作が困難となり、タルコフスキー同様に、国外で初めて映画を撮る場がイタリアであることに、この国の(異文化の才能を受け止める)包容力のようなものを改めて感じた気がする。

 ジュリエット・ビノシュのバイタリティというか、飽くなきチャレンジ精神には驚くばかりである。
 ヨーロッパ各国の作品にとどまらず、台湾の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画に出演するなど、精力的な活動を続けている。
 1990年当時脂が乗っていた2人、クシシュトフ・キェシロフスキ(ポーランドの監督)と彼女の映画制作を願ったもので、『トリコロール/青の愛』(1994年)実現には驚いたものだが、まさかイランのキアロスタミ映画に彼女が出るとは……
 取り巻く状況から生まれた企画で、彼女からラブコールしていたとしても、この組み合わせは想像できなかった。
 彼女は映画をよく観、愛する「映画ファン」と思われ、そのアンテナの敏感さとその行動力に敬服するし、本作の実現を感謝したい。

 フランスの女優としては、大御所カトリーヌ・ドヌーブに次ぐ存在になりつつあるのではないか(フランス女優には意外と中堅どころが少ない)。
 容姿やオーラでは大御所にかなわないにせよ、真摯に取り組む姿勢で幅を広げようと努力する姿には、女優の先の人間性を目指しているようにも感じられる(本作で、カンヌ国際映画祭 主演女優賞を受賞)。

 次は日本映画にも是非。渡辺謙とは似合いそうに思うのだが……

2011/01/05

ノルウェイの森

2010.12.29

 監督・脚本:トラン・アン・ユン
 撮影:李屏賓(リー・ピンビン)
 出演:松山ケンイチ、菊地凛子

 この文章は、原作ばかりか村上春樹の文章に接したことのない人格が記すことをご承知下さい。

 社会背景に「フリーセックス」(現在ではやりまくりという意味に使われているようで驚いたが、当時は婚前交渉を認めるべきというムーブメントだったと思う)が浸透していった1960年代、「愛≠セックス」という事態に直面し、子孫繁栄を目的としない精神の解放や高揚感をセックスに求めた若者たちの物語であり(悩み・苦しむ方がいることも確かです)、それは現代にも通じる性意識の乱れに対しての、都合のいい言い訳の起源とも受け止められる。
 日本人も欧米諸国の性意識を目指したのか、当時の団塊世代(時代)の映画には、セックスに特別な意味を持たせようとする作品が多く、下の世代には、それが「青春の門」なのか? という、大人世界への期待感を抱かせる影響力があった。
 結局は、ジュニア世代を生み出すための幻想が必要なだけで、その後は、同世代間での厳しい競争に勝ち抜くため社会活動に精力を注ぎ、日本の繁栄を生み出すことになる。
 団塊下のわれわれの世代は彼らを手本に世を乱してきたが、団塊ジュニア世代が親のお墨付きで「自由(放任)」に振る舞う現在の風紀の乱れは、お目付役不在の末世のようにも思える(とは言い過ぎか?)。

 「グリーン」や「水(湿度、濡れた感情)」のイメージが強く残るのは、監督トラン・アン・ユン(12歳でベトナム戦争を逃れるためフランスに移住)作風の特徴で、『青いパパイヤの香り』(1993年)『シクロ』(1995年)『夏至』(2000年)などでも効果的に使われ、監督名と共に印象に残る。
 監督の故郷であるベトナム(アジア)への強い思いが、この作品を「アジアの森」という世界観に結実させたと思うが、それは狙いではなくあるべき姿という気がしてくる。
 彼は熱帯〜亜熱帯地域に広がるアジアの湿度感というものを、日本人も持ち合わせることを理解しているようである。
 そんな湿度感は、男女を問わず瞳を潤させ(異性とのセックスを求めるサインを発し)、混沌とした状況に手を差しのべてくれると見立てた相手と、交わろうと誘引させる「空気感」として描かれている。
 ここには心身の不全でその機能が果たせずに、心まで枯れ果ててしまうヒロインが存在するが、それを純愛と扱わず「心の混沌(時代のうねり)」とする姿勢に、原作者(演出)のメッセージが込められている。
 「グリーン」「水」という人間にとても密接な存在を、人の営みにシンクロさせようとする静かな画面(本作は少し騒がしかった気がする)には、常に気の抜けない時間が流れており、時にそれは観る者を映す水鏡のようでもある。

 可愛いという記憶のない(失礼)菊地凛子だが、本作のようにエキセントリックな役柄では不思議な魅力を発し、とても印象に残り驚かされた。

 撮影の李屏賓(リー・ピンビン:台湾)の名前を最近よく目にするが(『空気人形』 『トロッコ』←観たかった)、海外で活躍する日本人カメラマンの出現も期待したい。

 観終わった後も、頭の中で勝手にビートルズのタイトル曲がリフレインされるのは、曲? or 映画? どっちのせい? と思うも、それはトータルとして映画の力であるはずだが、作品の空気感だけが曲と共に余韻として残った気がするのは、映画の力が足りなかったのか?

 『ノルウェイの森』とは、ビートルズのアルバム(『ラバー・ソウル』:1965年)が発売された60年代の混沌とした時代背景を指し、登場人物たちがその時代に居場所を見いだせない様を、森の中でさまよう姿に例えるような見事なタイトルと受け止められる。
 ただし原題の『Norwegian Wood』は、Woodsという森を示すワードではなく、ノルウェー製の「家具」「木製品」が正しいとのこと。
 とすると、タイトルの誤訳的な勘違いが通じるのは日本だけとなるが、結果的に森の湿度感が伝わるので、受け止めやすかったのではあるまいか。
 ちなみにこの曲は、ジョンが浮気を告白した歌だそう。

 映画らしい作品だったので、監督の次回作も楽しみにしたい。

2010/11/29

冬の小鳥

2010.11.23

 監督・脚本:ウニー・ルコント
 出演:キム・セロン、ソル・ギョング
 韓国・フランス映画

 父親に捨てられてしまう少女の物語。フランス人監督の経験から生まれた脚本を韓国人監督が気に入り、プロデュースを買って出て映画化された。


 父親によって孤児院(児童養護施設と表現すべきらしいがあえて)に置き去りにされた少女にとって、父の行為を理解し自分の置かれた状況を受け入れるまでには、気が狂わんばかりの苦悩と長い時間が必要であろう。
 それを受け入れられず、ただ父の迎えを待つつもりの少女としてみれば、突然閉じこめられた施設での生活など関心すらないのだが、待ち続ける日々が積み重なるにつれ、待つために生きていくことの必要性を感じ始めていく。

 よく「心の機微をとらえる」というが、幸いにしてそんな経験のないわたしには理解できないものの、思い当たる経験のある方には身につまされる描写の数々なのかも知れない。
 加えて無用な感情移入を拒むかのように、主人公のアクションは極力押さえられるため、主人公の心情を客観的に観ることが強いられる。
 そのかたくなさは、少女が置かれた状況をすべて受け入れ、養女として引き取られ「生きていく」ことを、自らの意志で決めた時に起こす唯一のアクションに収れんされる。
 けなげさがあまりにも痛々しい「笑顔」というアクションには、観る者を突き放す彼女の苦悩が込められている。
 それ以外のアクションに、主人公の孤独感を伝える手段はない、という演出者の強い意志の表れかも知れない。

 物語が終わっても結局ボールはこちらに投げられず、主人公が背負ったままとなるので、われわれには、彼女の重荷が少しでも軽くなるよう祈ることしか与えられない。
 「いつか彼女の心に希望の光がともりますように」と……
 ──この印象は、フランソワ・トリュフォー監督『大人は判ってくれない』(1959年)を観終えて感じたものに似ている。

 出来として成功とは思えないものの、映画館の看板(岩波ホール)や宣伝に使われた少女(ジニ)の悲しげな表情は、鑑賞後の余韻の方が強く残る印象があり、『ミツバチのささやき』の「アナ」のようにこの先も忘れられなくなるかも知れない……

2010/09/27

オカンの嫁入り

2010.09.07

 監督・脚本:呉美保
 出演:大竹しのぶ、宮崎あおい

 好評を博した大河ドラマを経て、もう仕事を選ぶ立場でいいと思う宮崎あおいですが、今回は大竹しのぶとペアの「2本釣り」だったのではあるまいか?
 お互いに「この相手ならやってみたい」という気にさせる組み合わせの誘いが、見事にはまったと思われる企画に、こちらもはめられた印象があります。

 物語は、関西地区のローカルテレビ局で放映されるような、お騒がせ家族モノなので、笑えずに失笑するものの、舞台として登場する京阪電車(大阪〜京都を結ぶ)や、京都と思われる町並みに懐かしさが感じられました。

 あおいちゃんのスゴイところは、衝撃的な話を聞き、ショックのあまり身じろぎできない様子のドアップの長回しを、微妙な表情の変化で見せきって、スクリーンを支えてしまう迫力にあります(『剣岳 点の記』でも感じた、映画スタアが持つ力です)。
 わたしが監督だったとしても、重要なポイントではきっと彼女のアップの長回しを選択すると思うほど、魅力的であると思います。
 大竹しのぶの演技力をしても、ドアップで使おうとする人がいないことを考えれば、その魅力が理解できるのではないでしょうか。

 大竹しのぶは宮崎を認めているからこそ、突き放すようなそぶりを見せているように感じられます。
 「この子、きっと目を合わせにくるから、避けなくちゃ。でも、この子なら何とかするはずよ」
 なんてやりとりが見えたような気がしますし、あおいちゃんも大御所の𠮟咤を理解しているように見えました。
 そんなふたりの掛け合いが楽しめるのですから、観る価値があると言えるのでしょうね。

 テレビには出演しないあおいちゃんが、本作のプロモーションをきっかけに、テレビのバラエティに出演する姿を見ましたが、緊張しているのか、以前のままの少女(ガキ)なのか、素の印象はちょっと残念なものでした……
 映画スタアは、映画で華を見せてくれればいいのだから、またスクリーンで頑張って欲しいモノです。

2010/03/01

おとうと

2010.02.21

 監督:山田洋次
 脚本:山田洋次、平松恵美子
 出演:吉永小百合、笑福亭鶴瓶

 監督が、これで鶴瓶をコントロールしていたと考えたなら、ちょっと違うような印象を受けました(かなりはみ出している気がします──何が?)。
 テレビの鶴瓶(遠慮があるんだろうか? 「家族に乾杯」「ブラックジャックによろしく」等)は好きなんですが、映画の彼には関西芸人の性分というのか、「いやらしさ、えぐさまで見せたろ」という下心まで見える気がして、どうも箸がすすみません(昨年評価が高かった『ディア・ドクター』でも、鶴瓶の素が見え隠れした気がしてダメでした)。
 演技者の顔ではなく、芸人の素(本気でやるでぇ)が見えた気がしてなりません(むかしのビートたけしの「狂気性」にも関心は無いので、役者ならば、人を楽しませ引きつける芸であって欲しいと思っています)。

 山田洋次さんの「若手育成に取り組む」との話しは、少し前に聞いていましたが、どうも本作からは、「若手の習作」をロートルたちがサポートしている現場の様子が思い浮かんできます。
 山田組は(寅さんを含めて)段取り芝居ですから、そのおさらいを若手たちに実践させているようにも受け止められました(でも現場での山田さんは、見守ることも我慢できなかったのではあるまいか)。
 ならば、その段取りストーリーの完成度を感じさせて欲しいと思うのですが、結局鶴瓶の散らかし放題を、吉永さんが尻ぬぐいに回るばかりが印象に残ります(ストーリーだけではなく、映画自体の空気も)。蒼井優ちゃんも素材以上の演技は求められていない気がしました。
 前作である『母べえ』(決して明るい話しではない)が、先日テレビ放映されたのをチラッと見たのですが、面白くてしばらくチャンネル変えられなかった印象が、本作への期待外れにつながったのかも知れません。

 エンドロールに「市川崑監督作品『おとうと』(1960年)に捧ぐ」とあり、とてもいい作品との印象を持ちながらも内容が薄れていたので再見したところ、その素晴らしさに本作の陰までも見失いました。
 テーマ設定は共に「家族の再生」であっても、時代背景や作劇での狙いどころは違いますから、比べられるものではありませんが、旧作の岸恵子さんの「烈」が見事に花咲かせたのに対して、「忍」がはまる吉永小百合さんを、より押しこめようとしたため、不完全燃焼に終わってしまった印象を受けます。
 関西で育った女性の気性を、吉永さんに求めるのは無理なのかも知れませんが、そんなこと以上に、演出が彼女を縛っていた気がしてなりません(他の出演者にも言えるのではあるまいか)。

 前作では、吉永さんの思い通りの自由な演技と思える姿から、とても好印象を受けたのですが、監督はそれが気に入らなかったのだろうか?(吉永さん、少し顔が変わったような印象を受けました)。

2010/02/08

今度は愛妻家

2010.01.31

 監督:行定勲
 脚本:伊藤ちひろ
 出演:豊川悦司、薬師丸ひろ子

 この監督の作品はいつも「冗長」と感じてしまう面があります。
 巨匠のスタイルを作ろうとしているのか、ダラダラと話しを膨らまそうとするばかりで、しまいには飽きてしまい、演出の印象すら霧散してしまいます。
 またこの監督には、サディストと感じられる面もあり(『世界の中心で、愛をさけぶ』で長澤まさみの頭をそらせたのは成功例だが)、本作の目的は「女神 薬師丸ひろ子像の解体」だったのか? という印象を受けます。
 インタビューで耳にした「薬師丸ファン」を自認する監督が、彼女の顔で「福笑い」をしたかった(?)とも思える表情のとらえ方に、女神のイメージを分解しようとする意志が感じられました。
 確かに、彼女のそれぞれのパーツを分解すると「不思議な組み合わせで出来ていたんだ」と感じさせられる部分に、彼の主題があったのだろうと、納得できる面もあります。
 また彼女には、わざとベタベタとだんなにまとわりついて、男には「うっとうしい」と感じる人物像を求めたのでしょう。
 当時の「薬師丸フリーク」が、父親や中年のオヤジとなった現在において、幻想を捨てるためには必要な儀式だったりするのかも知れません。
 実際は「あんなに太ってないだろう?」という幻想も含めて、「現実と向き合おう」(奥さんや家庭環境等)という提言なんだと受け止めました。
 ──フリークではないわたしには、もうすっかり「一平くんのお母さん」(映画『三丁目の夕日』)としての魅力が定着しているのですが……

 トヨエツのだらしない役まわりははまりすぎで、身のこなしが様になるところなど、監督の自己投影願望が感じられる気がします。

 結局、室内が舞台の会話劇ですから、これで130分(長すぎ)では「疲れたぁ」という印象しか残りません……

2009/10/19

ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~

2009.10.15

 監督:根岸吉太郎
 脚本:田中陽造
 出演:松たか子、浅野忠信

 ファーストシーンの、主人公である浅野忠信が暗闇を駆けてくるシーンには、いきなり食いついてしまう迫力がありました。
 作品テーマのようなシーンですから、力が入っていたようです。

 原作者である太宰治の、生誕100年という節目に企画された作品なので、本作の製作意図には「太宰の人物像を多角的な視点から浮かび上がらせる」ことが、念頭に置かれているようです。
 本作では、表題作に加え「思ひ出」「灯籠」「姥捨」「きりぎりす」「桜桃」「二十世紀旗手」等の作品からもエピソードを抽出(公式ホームページより)することで、太宰像をあぶり出そうとしています。
 タイトルまでは記憶していませんが、覚えのあるイメージが散りばめられており、詳しくないのですが、わたしなりの太宰像に近しい印象を受けました。

 監督の思いも強かったと思われますが、その功績は脚本の田中陽造さんの力によるものだと思われます。
 この方の成功作『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)等では、妖術(?)を使って脚本を書いているのでは、と思われるような、不可思議な世界が造形されるので、怪しいと思いながらも引き込まれてしまう、ワンダーワールドが繰り広げられていきます。
 また、監督も脂がのっているようで、近作の『雪に願うこと』(2005年)、『サイドカーに犬』(2007年)は共に印象に残っていますが、本作では風格すら感じさせられました。

 不道徳とされる問題を次々に起こす夫を、懸命に支える妻の「何事も受け止める包容力」には、心を揺さぶられます。
 どんな存在であっても救うことのできない人物でありながらも、妻に背負わせた不道徳すらも「心の闇」に吸い込もうとする太宰に対して、妻が差し伸べる「生きていればいいのよ」の言葉で終わらせたのは、見事な終幕であったと思います。
 しかし、ここに描かれているのは太宰治であると認識しているわれわれは、それでも太宰は死を選ぶという「映画には描かれない結末」を、心の中に持ち合わせています。
 結局作者側(監督・脚本)は、ポジフィルムでは太宰治という「心の闇」を描くことはできないことを、白状しているように思えます。
 本作のテーマは、エンドマークの後で観客自身に、この物語をネガフィルムに反転してもらうことなのではないか? とも思えます。
 しかしそれは、物語が完結できていないことの裏返しでもありますが、現在でも新たな読者を増やし続ける「心の闇」という身近なテーマを、映画で訴える手段としては、かなり近しいものに思えます。
 ──ネガ・ポジの例えを用いるのは、とても古くさい表現だと思いつつも……


 そんなスタッフに比べ、演技陣には物足りなさが感じられます。
 松たか子(彼女は舞台向きの役者ではないか?)の懸命な姿勢は見て取れるのですが、内面から伝わるモノが感じられませんし、浅野忠信には近ごろ、小手先でこなそうとしているような薄っぺらさが感じられます。
 監督に要求されるものが、とても難しいことは理解できますが、妻夫木聡のように懸命な姿勢が見たかった気がします。

 ヴィヨンとは、高い学識を持ちながら悪事に加わり、逃亡・入獄・放浪の生活を送った、フランス中世末期の近代詩の先駆者フランソワ・ヴィヨンのこと。無頼で放蕩な人の例えとして使われている。(公式ホームページより)

2009/10/05

空気人形

2009.9.29

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:ペ・ドゥナ

 空気人形とは、空気で膨らます人間の形をした人形で、その役割は
 「わたしは空気人形。性欲処理の代用品」
 というものになります。
 日本映画のそのような役柄であるにもかかわらず、韓国の女優であるペ・ドゥナがよく出演を決断したものだ、と驚かされました。
 空気人形が「心を持つ」物語において、無垢(むく)な存在の言葉が、たどたどしい日本語であることは、とても大きな要素であることは確かです。
 ──むかしの映画『田園に死す』(1974年 監督:寺山修二)には、「空気女」(春川ますみ )という見せ物小屋の人気者がいたりしましたが、それは寺山修二の創作による哀れな存在であったと思います。

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 ダッチワイフの語源となるダッチ(Dutch)には、オランダを蔑視(べっし)する意味があるそうです。
 植民地時代の商売敵であるイギリス人やアメリカ人が悪口として、「Dutch Wife(オランダ風妻)」として呼んだという説があるそうで、現在では「Sex Doll」と呼ばれるそうです。
 監督が説明に使っていたラブドールを調べてみたのですが、これは風船ではなく、豊胸等に使用されるシリコーンで作られた人形になるそうなので、柔らかなマネキン人形のイメージでしょうか。
 その辺りはあまり掘り下げないつもりだったのですが、世界的にもかなりディープな世界が広がっているようで驚きました。
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 「中身が空っぽな存在(人間)を同類と認識する意識」「日差しによる陰が透き通ってしまう造形」「息を吹き込まれるエクスタシー」等々の腐心は見事です。
 そんな情景描写の積み重ねの部分では、昨年亡くなった市川準(じゅん:『病院で死ぬということ』等の監督)さんを想起させられ、また、苦悩の決断によるその選択について、こちらが思いをめぐらする部分では、こちらも亡くなられた相米慎二(『台風クラブ』等の監督)さんが想起させられました。
 おそらく、狙っていた場面は思い通りに撮れていても、ファンタジーとしての着地点を模索していたように思えました。
 韓国映画のような散り方にも感じられますし、中身は空のラムネの瓶でも「向こう側の景色はぼやけてしか見えない」ところが、日本映画的であるとも言える気がします。

 批判と取られそうなことを書きましたが、本作はとても「映画らしい作品」だと思います。
 作り手側の苦悩・奮闘ぶりを感じさせてくれる部分が、とても映画らしいのではないか、と思われた作品です。
 韓国国民の感情を逆なでして、国際問題の火種にならないようにと、最後まで腐心されていたのではないでしょうか。それはまさに「チャレンジ精神」と言えるかも知れません。
 ビニールの接合部分の跡を化粧で消してもらうシーン等には、ペ・ドゥナの素顔が出ているようにも思えたので、彼女自身にも満足感はあったのではないだろうか。

 撮影の李屏賓(リー・ピンビン)は、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)や王家衛(ウォン・カーウァイ)の作品を手がけた方です。
 出番は少ないにしても脇役陣の押さえ方は、構成力によるものと思います。
 是枝裕和作品には、『幻の光』『誰も知らない』『歩いても 歩いても』等があります。

2009/09/26

プール

2009.9.24

 監督・脚本:大森美香
 出演:小林聡美、加瀬亮、もたいまさこ

 本作の舞台はタイのチェンマイになり、とてものんびりとした風景の中で物語が描かれていきます。
 はじめての海外旅行の地で、もたいまさこさんが「こんにちは」とお辞儀してくれたら、もうそれだけでなごんでしてしまう、導入部の場面があります。

 娘を捨てて家を出ていった母親(小林聡美)が暮らすタイの地を、初めての海外旅行で訪問する娘(伽奈)との母子関係が、自然に囲まれたプールのあるゲストハウスにおいて修復されていく、という話しになります。
 そのゲストハウスには、親のいない存在(男の子、ネコ、犬、牛等)が身を寄せており、親なし子の面倒を見る独身男(加瀬亮)は、「母親に会いたい」男の子の願望をかなえようと奔走します。

 そんな仲間が、肩を寄せながら暮らしていきましょう、という話しであるならば、まったりと観終えることができるのですが、母親が、娘の養育を放棄したことを認めるばかりか、自己主張として娘に向かって語り始めます。
 子どもを生んでも、「母親だから」という理由で、子どもに縛られる義務は無いんだ、との主張と受け止められました。
 終幕において、母親の求めているものや、女性としての強さについて、娘は理解できたであろうことは、伝わってきた気がします。
 しかし百歩譲って、子どもを見捨てることで母親が自由になれることを認めたとしても、親のいない存在はこのゲストハウスのような、善人に引き取ってもらえばいいとするならば、ちょっと理解ができません。
 親が子どもを育ててさえいれば(特別な事だとは思えません)、親のいない存在が寄り集まる場所などは必要ないのですから……
 そんな、世間の「親はちゃんとしているのが当たり前」という認識に対する反論というか異議なのだろうか?
 訴えたいとする意志のあることは理解できるのですが、その内容についてはちょっと理解できませんでした。
 ──ダメな親もいるのよ、というニュアンスだとしたら弱すぎると思います。また、物語には父性も欠落しています。父親や男性に対する批評であるならば、もっと別な訴え方があるかと思われます。

 親のいない男の子は「ビー」という名前で、『ホノカアボーイ』の倍賞千恵子さんの役名(みつばち)と同じです。
 ここでは「みなしごハッチ」の意味とされるのか? とは、勝手な想像のしすぎでしょうし、タイでは意味が違うかも知れません……

 「靴を脱いでね」という、素足の文化になじんでいくことで、足元を見つめ直すような物語であって欲しかった気がします。

2009/09/22

ポー川のひかり

2009.9.15

 監督・脚本:エルマンノ・オルミ
 出演:ラズ・デガン、ルーナ・ベンダンディ

 本作はイタリア映画で、新約聖書にまつわる現代の寓話になります。

 ボローニャ大学の図書館で、聖書が100本の釘によって磔刑(たっけい:はりつけ)のように、床や机に打ちつけられる事件が発生し、哲学科教授の手によるものと判明しますが、本作はその動機の背景についての物語になります(原題はCentochiodi:100本の釘)。
 いきなりネタばらしのようですが、そんなことでこの作品は揺るぎません。
 ──ヨーロッパ最古の総合大学とされるボローニャ大学には、ダンテ(叙事詩『神曲』 1321年没)、コペルニクス(地動説 1543年没)、ガリレオ(「それでも地球は動いている」 1642年没)が在籍し、ウンベルト・エーコ(『薔薇の名前』の原作者)が教鞭をとったそうです。

 上述の反宗教的とも思われる行為は、聖書やキリスト教の教義に対する抗議ではなく、権力集団と化してしまった教会や学会的な知識人組織に対する、原点回帰を訴えるための一矢であると思われます。

 哲学教授は自己再生のために、すべてを捨て去りポー川の河辺にある廃虚で暮らし始め、河畔を不法占拠しながら生活するコミュニティの人々に求められ、「自分の言葉」として聖書の教えを語るようになります。
 そこで住民たちに「キリストさん」と呼ばれるようになることが、重要であると思われます。
 教団の布教活動では重要になると思われる「奇跡」ですが、庶民にとってはそれ以前に、日常生活の「やすらぎ」というものがとても大切なものになってきます。
 本作の「キリストさん」は結局、退去勧告を迫られた河辺の人々には、何も与えられなかったようにも見えますが、そんな彼の帰りを迎えるための道しるべとして灯された明かりは、河辺の人々の希望の光であると受け止められます。

 舞台であるポー川の河辺を、聖地エルサレム(キリストが教義を語り、そして処刑・埋葬・復活したとされる場所)に例えているようにも思われます。
 しかし、その場所だけを特別視する理由の無いことを、「キリストさん」がそこに戻ることなく、川面から立ち去る印象を残し姿を消してしまうことで表現しているように思われます。

 それを「神の不在」ととらえるか、「人類の正念場」ととらえるか、についての作者の提起はありません。
 現代社会は、教義の対立ではなく、宗教組織間の争いによる危機に直面していることを、訴えているのだと思われます。
 冒頭のインド出身の学生との会話に
 学生「わたしは子どものころ、世の中のみんなを救いたいと考えていた」
 教授「子どもはみなそう考えるが、やがて自分を守ることで精一杯になる」
 とありました。
 これは、インドの学生を「仏教」に例えたものと思われ、宗教全般に対しての作者の考え方の表れと思われます。
 もともと、どの宗教も「世の中の人々を救いたいがために始まった祈り」であるはずだと……

 冒頭の「どんな書物も、書物そのものは語らない」というクレジットは、物語の主題とされるキリスト教に対する見解かと思っていましたが、「コーラン」を神格視するイスラム教に対する見解でもあるように思えてきました。

 エルマンノ・オルミ監督の名前を久しぶりに目にして、懐かしさから足を運びました。
 『木靴の樹』(1978年)しか観ていませんが、でも「絶対に裏切られない」と勝手に思い込んでおりました。
 上記の作品は3時間に及ぶ長編で、何度となく睡魔の誘いに屈しましたが、木靴を手にした子どものうれしそうな目だけは良く覚えています。
 これまでも多作でありながら、日本公開は限られていたようです。今後はドキュメンタリーを軸に撮られるそうで、また機会があれば足を運びたいと思っています。

2009/09/14

九月に降る風

2009.9.8

 監督・脚本:トム・リン(林書宇)
 出演:リディアン・ヴォーン(鳳小岳)、チャン・チエ(張捷)、ジェニファー・チュウ(初家晴)

 本作は、台湾の悪ガキ高校生グループの青春群像を描いた物語になります。
 予備知識は皆無の状態で、『風櫃(フンクイ)の少年』(ホウ・シャオシェン:候孝賢 1983年)に通じる雰囲気だけをイメージして足を運びました。

 心の痛さがとても響いてくる台湾の青春映画に引かれるのは、日本占領下(1895年(明治28年)下関条約による台湾の日本割譲〜第二次世界大戦まで)での文化の押しつけが、現在も接点とされる親近感ではなく、東アジアの島国という環境・歴史に根付く「島国文化」という共通点を、実感できる面にあると思われます。
 そこには、わたしたちの暮らす国が、これまで行ってきた行為に対する反省から感じる「痛さ」が含まれますし、忘れつつある島国特有の「おおらかさ」を思い出させてくれるような「刺激」が含まれるようにも思われます。
 ──同じ隣国である、韓国、中国には「むき出しの反日感情」が存在することを理解しているので、こちらにも一応身構える姿勢が必要になります。しかし、台湾には「好日的」と言える空気があることを感じる度、自らの意志によって「反省すべき」という気持ちがわき上がってきます。それを、島国の連帯感と考えたいと思ったりします。

 本作の舞台は1996年、台湾新竹(IT企業が集まる「台湾のシリコンバレー」と呼ばれる町)で、当時の台湾プロ野球界を揺るがせた八百長事件を背景にして描かれます。
 劇中に登場する元プロ野球選手で、八百長事件で追放される廖敏雄(リャオ・ミンシュン 本人が登場)は現在、高校野球の監督として野球に情熱を注いでいるそうです。
 九月は台湾の新学期にあたります。
 高校卒業の時にしか感じることのできない、社会に踏み出す者への洗礼のように降る「新しい風」と、ダーティーとされながらも心の中で生き続けているヒーローに、スカッとホームランされることにより、主人公は後押しを受けます。道を踏み外した者にも、夢を追い続けることは可能であると……
 痛みを知った者同士が、尻をたたき合いながら再スタートする姿を、見守ろうとするおおらかな視線のあることが、観る者にも救いと感じられるのではないでしょうか。

 露出が増えれば日本でも人気が出そうな、ジェニファー・チュウちゃんをヒロインに起用するあたりは、現代台湾映画の戦略傾向なのかも知れません。
 以前の『恋恋風塵』等では、イモ姉ちゃん(大変失礼! シン・シューフェンの大ファンでした)たちの素朴さを、しみじみかみしめたものでした……
 そんな思いもよみがえってきたのですから、本作を観たかいがあったというものです。

 劇中に『恋恋風塵(れんれんふうじん)』(ホウ・シャオシェン 1987年)の映像が使われていて、一気にタイムスリップした気分にさせられ、『悲情城市』(ホウ・シャオシェン 1989年)、『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(エドワード・ヤン:楊徳昌 1991年)の世界がよみがえってきました。
 確かに描かれる時代背景は違うのですが、伝わってくる「痛み」の空気感というか、映画の肌触りから感じられる台湾らしさというものは、変わっていないように思われました。