2019/11/28

真実

2019.11.16

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:カトリーヌ・ドヌーブ、ジュリエット・ビノシュ、イーサン・ホーク

 カトリーヌ・ドヌーブが女優を続けるのは、シモーヌ・シニョレを目指すためではないか(リアルタイムで観た『これからの人生』 (1977年)が心に残る)。そしてジュリエット・ビノシュも、それに続こうとしているようにも。
 カトリーヌ・ドヌーブの相手により変化する演技は、「これが役者の醍醐味」と楽しんでいるかのようで、ジュリエット・ビノシュも、その演技に対峙することを喜んでいるように見え、久しぶりに演技から目を離せない作品だったと。

 真実(心)とは、表現した瞬間から、周囲(家族であっても)に虚構と受け止められることを恐れ、揺れる「心のあり様」ではないかと。
 夫婦、親子でも踏み入ることはできないし、周囲に決して見せることができない心の姿が、「真実」の正体と言えるかもしれない。

 フランス映画の空気感を表現した是枝さんの脚本は、周囲の協力を得たとしても見事だし、演出にもフランス映画的な落ち着きが感じられ、カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)に値する作品と受け止めます。
 日本のエースが、世界のエースの一員として認められたことを契機に、さらに飛躍されることを楽しみにしています。

2018/07/23

万引き家族

2018.7.7

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:リリー・フランキー、安藤サクラ、城 桧吏(かいり)、佐々木みゆ、松岡茉優、樹木希林

 「家族を自分で選べるのか?」との問いかけは、家族崩壊の危機感から生まれるらしいが、選べることができたとしてもそれは疑似家族でしかない。その関係性は、つなぎ止める接点が脆弱なため揺らいだ途端に崩壊してしまうが、本来の家族(血のつながりの有無に関わらず)でも、構成員が守ろうとする意識を持たなければ、あっけなく崩壊するかも知れない。
 本来の家族関係に居場所を失った連中が肩を寄せ合う疑似家族は、食べることで精一杯ながらも、家族生活のように振る舞える環境を共有し、家族の連帯感を手に入れたとの幻想を抱く。
 しかし、複数の名前を演じ分ける娘や、勝手に連れ帰った女の子の名前を聞き間違え、ペットのように勝手に命名するなど、愛情に欠ける無責任な行動からほころんでゆく。

 これまでのリリー・フランキーは役者に片足を入れただけに見えたが、彼自身の生い立ちが見え隠れするような役を演じ、役者としての幅が広がったように。
 安藤サクラは文句のつけようがなく、取調室で涙を拭う長いシーンは心に残るし、今後あれだけのシーンを演じる機会はないのでは。
 城 桧吏は、映画『誰も知らない』(2004年)の柳楽優弥を想起させ、今後が楽しみ。
 海水浴場面の樹木希林の横顔から、笠智衆さんを想起した。TV『寺内貫太郎一家』(西城秀樹の「汚ねーな、ばあちゃん!」)以来、老け役を幾度も目にしたが、本物のばあちゃんになったと(笠さんも老け役を演じ続け老人となった)。

 カンヌ国際映画祭 パルムドール受賞に賛辞を贈ります! が、それは他人の評価。
 私にとっては前作『三度目の殺人』が消化不良だったこともあり、是枝監督の家族を描く作品を渇望していた心にしみ込んだことが、最大のよろこびと。

2018/05/07

北の桜守

2018.4.1

 監督:滝田洋二郎
 脚本:那須真知子
 出演:吉永小百合、堺 雅人、阿部 寛、佐藤浩市、岸部一徳

 終戦を樺太で迎えた家族だが、ロシアの侵攻から生活を守るため戦いに向かう父親と、戦渦から逃れるため北海道へ向かう母子(息子2人)が別れ別れになり、母(吉永)と次男(堺)は癒しがたい記憶を背負いながら、たくましく生き抜く物語。

 当時の状況が過酷すぎるため、吉永さんに求められるものは限られるようで、息子(堺)の経験談を軸に展開する流れは、堺の過剰な演技もあり、吉永さんの演技に期待を抱く者には物足りなさが残る。
 彼女に遠慮しているように感じられ、たとえはしたない場面があったとしても、もっと彼女を全面に出すべきではなかったか。

 勝手な考えだが、網走までたどり着いた道のりを、映画『砂の器』のように四季を織り交ぜた北海道の自然を背景に描けたなら、ラストの無念さが増幅され、観る者に迫ってきたのではないかと。
 観る側がそんなストレスを感じるのは、狙いに弱さがあったためとも。

 吉永小百合を囲む「映画友の会」のように共演陣が集合し、見守るだけのラストは、いくら「吉永小百合映画」としても、観る者を軽視し過ぎではないか。

2018/02/26

スター・ウォーズ/最後のジェダイ

2018.2.10

 監督:ライアン・ジョンソン
 出演:デイジー・リドリー、ジョン・ボヤーガ、アダム・ドライバー、マーク・ハミル、キャリー・フィッシャー

 エピソード Ⅰ〜Ⅲでは父親(ダース・ベイダー/アナキン・スカイウォーカー)の世代、エピソード Ⅳ〜Ⅵでは子ども(ルーク・スカイウォーカー、レイア・オーガナ)の世代を描き、エピソードⅦ〜Ⅸでは、現在のところ血縁者ではない若者(レイ、フィン)の世代が、ジェダイではなくてもフォースを身につけられる可能性を示そうとする。
 全シリーズを通して、時の流れと共に意識が変遷する「時間を描く物語」とすると、世代をまたいだ長大な時間が必要だったことも理解できる。

 不安を受け止められるレイの姿には、light(光を放つ太陽のような希望)vs dark(光を吸収するブラックホールのような恐怖)として描かれてきた、ジェダイとシスの関係を超えた精神性の存在が託され、light vs darkの葛藤を制した先に、劇中で語られる「バランス」を持ち合わせた強い精神が生まれることを暗示する。
 そこから、フォースの象徴的存在である「ヨーダ」の造形こそ、全シリーズを通したテーマであると気付くことに。
 現存するように描かれてきたが、彼の存在は心象の投影(R2-D2が投影するホログラムのよう)であり、心が生み出す理性(フォース)が擬人化(人?)された存在ではないかと。レジェンドとなったルークの肉体は失われても、慕う人々の心には、オビ=ワン・ケノービ、ダース・ベイダー(アナキン・スカイウォーカー)同様に生き続け、フォースを導き続けるのであろう。

 本作では、大半の労力が輪郭をあいまいにした背景提示と、その肉付けに費やされたため、活劇としての躍動感が欠けてしまった。
 魅力的な人物が不在である(悪役が強くない)ことが、バランスの均衡を取り戻しつつあるとの表現としたら、娯楽作として道を誤っている。カイロ・レンを悪役にしたくない伏線が見える気がしたのは、最終作への準備のようにも。

 懐かしい面々との再会もつかの間で、前作でハン・ソロ(ハリソン・フォード)、本作でルーク(マーク・ハミル)が姿を消し、不本意ながらも実生活でキャリー・フィッシャー(レイア・オーガナ)が亡くなりました。
 全シリーズ最終作となる次作は、新しい世代に託されることとなり、どんな希望が描かれるのか楽しみにしたい。
 「In loving memory of our princess, Carrie Fisher.」の追悼文は、次作の着地点がSTAR WARSシリーズを作り続けてきた原動力なのだから、「キャリーにも必ず届けるよ!」の誓いのように響く。

2018/01/15

花筐/HANAGATAMI

2018.1.4

 監督:大林宣彦
 脚本:大林宣彦、桂千穂
 出演:窪塚俊介、満島真之介、長塚圭史、常盤貴子

 戦前に発表された檀一雄『花筐:1937年』を、1938年生まれの大林監督が映画化した作品。
 戦争が迫る時代に、自らの命をまっとうしたいともがいた若者たちの姿は、近い将来ミサイル飛来が差し迫った際の、われわれの姿に重なるかも知れない。
 当時は不治とされた胸の病は、現在では医学の進歩により完治可能となったが、戦争で死にたくない若者を救う手だては、戦後70年を経過した現在でも確立されていない。
 戦争を経験した人々の「不戦の誓い」が揺らぎそうな現在に、あきらめてはいけないと訴える先達たちからのメッセージ
 「君たちも、戦争で死にたくないだろ?」
に、異論を唱える者はいない。

 近ごろは、リアルさにこそ説得力があるとの風潮からか、エグい絵をよく目にするが、ベテラン監督は対極の比喩的表現の中で、あえて「血」をモチーフに用いている。
 何度も登場する「血」のイメージは、命・生命力の表現であり、監督自身の活力=血潮の意味と受け止めた。
 コマ落とし、合成、反転、回転等々の演出に、いまも取り組もうとする意欲に敬服し、三つ子の魂を百まで持ち続けるであろう、少年の心に拍手を送りたい。
 映画が好きで好きで仕方ない、心根が変わらない大林映画の集大成のように映った。

2017/12/04

三度目の殺人

2017.11.26

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:福山雅治、役所広司、広瀬すず

 殺人という行為を社会が認知するためには、罪を確定させる判決が必要で、容疑者がその判決に従う状況から、国民はその結果を受け入れることになる。
 それを決する司法機関は、国の秩序を守るために「人が人を裁く」ことを認められた特別な立場だが、そこに関わる方々は、本作からの疑問に納得できる回答をしてくれるだろうか?
 本作では、被害者の命を奪った殺人者、殺人者を擁護し罪を背負おうとする者、その主張をくみ取ろうとする弁護士たちは、裁かれるべき真相の究明ではなく、法廷での立ち振る舞いに腐心するように見えてくる。
 法廷によどむ自己防衛意識を察した少女が、「誰も、本当のことを言わない…」と感じたゆがみまで、当事者たちは正当化しようとするのか?

 分かりやすく伝えることは不可能なため、あえて説明しない方針らしいが、そのため出演者たちの持ち味も発揮できなかった印象を受ける(斉藤由貴だけは別の意味で印象に残った)。

2016/06/20

海よりもまだ深く

2016.6.11

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:阿部寛、真木よう子、小林聡美、リリー・フランキー、樹木希林

 本タイトルは、テレサ・テンが歌う「別れの予感(YouTube):海よりもまだ深く 空よりもまだ青く あなたをこれ以上 愛するなんて 私にはできない……」 によるらしいが、観る者には「父母の恩は山よりも高く海よりも深し」の、ストレートな表現として受け止められた。
 人生での様々なチャレンジは、思い通りにならないことが常であるが、その受け止め方も当人と親では異なるのも当然である。子の問題に関して親は反則を顧みずに行動を起こすのは、愛情を注ぐ対象のかけがえのなさを、確かめようとするためかも知れない。
 けたたましくもほほえましく描かれる母と姉の女の会話は、描かれない父と息子の言葉数の少なさを際立たせ、主人公が父の遺品である硯で墨をすりながら、姿勢を正そうとする意識には、父の背中を手本とすべく「親としての自覚」が芽生えたように見える。

 樹木希林さんには、自分の母をも想起させる普遍性が感じられ「演技を越えた存在」に思えてくる。阿部寛のダサいオヤジぶりの見事さに驚くが、男の外見には気の持ち方が出てしまうらしく、シャンとせねば! と思わされる。
 本作同様、昭和歌謡(ブルーライト・ヨコハマ)を題材とした『歩いても 歩いても:2008年』も、阿部寛、樹木希林の出演が強く印象に残るので、再見したくなった。
 是枝作品では繰り返しになるが、小津安二郎監督が危惧した「家族のあり方」を、現代に追い続ける作品には毎回刺激を受け、目を離せない数少ない監督と本作でも感じた。

2016/02/15

スター・ウォーズ/フォースの覚醒

2016.2.1

 監督:J・J・エイブラムス
 脚本:ローレンス・カスダン、J・J・エイブラムス、マイケル・アーント
 音楽:ジョン・ウィリアムズ
 出演:ハリソン・フォード、マーク・ハミル、キャリー・フィッシャー、デイジー・リドリー、ジョン・ボイエガ

 本作に接し、高校生時分に出会った第1作『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望:1977年』に熱狂したわれわれは、「スター・ウォーズ世代」であることに気付かされたが、いまやオヤジ世代となった観客も、同窓会のような「還暦 スター・ウォーズ」を拍手で迎えたのではないか?(ハリソン・フォード 73歳、マーク・ハミル 64歳、キャリー・フィッシャー 59歳)
 若かりし彼らが躍動したエピソード4〜6の後日談を同じ出演者で焼き直し、「歴史が繰り返す時の流れ」を表現するためには、38年という時間が必要だったようだ。
 「あなた(伝説の)ハン・ソロなの?」と問われ、「昔の話しだ…」と答えるハリソン・フォードの顔に、深いしわを刻み込んだ時間は、観る側が過ごしてきた時間の長さと等しく、年代は違っても同窓生のような「時の流れの共有感」に気付いた瞬間には、グッとくるものがあった。そんなアプローチをした作品があっただろうか?
 第1作のルークが、次作でオビ=ワン・ケノービ(アレック・ギネス)のような「師」となる(であろう)までの年月を、自身で「a long time ago…」と振り返っても青臭さしか感じないが、いつ見失ったかも覚えていない「未来を見つめる目」が、そこには確かに存在していた。そんな思いをたぐり寄せられれば老骨にムチ打てるはずと、自身のフォース(?)を覚醒させねば……

 ミレニアム・ファルコンの低空飛行の臨場感は見事。これまでのお姫様的ヒロインではない、たくましいデイジー・リドリーが次作で一層輝くことを楽しみに。
 ジョージ・ルーカスは断念するも、ルーカスフィルムを買収したウォルト・ディズニーによる新シリーズは、スター・ウォーズの世界観を客観視している(多くのフリークスタッフのアイディアが詰まっている)ようで、最終シリーズにふさわしい取り組みと感じられた。

2016/01/18

母と暮せば

2016.1.4

 監督:山田洋次
 脚本:山田洋次、平松恵美子
 原案:井上ひさし
 音楽:坂本龍一
 出演:吉永小百合、二宮和也、黒木華(はる)、浅野忠信

 作家 井上ひさし(2010年没)が、広島を舞台とした戯曲『父と暮せば』の対となる、長崎が舞台の物語を構想するもかなわなかった思いを、山田洋次監督が受け継いだ作品。
 2004年黒木和雄監督の映画『父と暮せば(リンク先はYouTube予告編)』では、父(原田芳雄)の亡霊が娘(宮沢りえ)を見守ったが、本作(リンク先はYouTube予告編)では息子(二宮和也)の亡霊が母(吉永小百合)に寄り添う。
 母を主人公とすれば情緒に訴えられるとの狙いは山田監督らしく、立体視が可能と思える両監督が描いた「二発の原爆」を受けた当時の日本人は、亡霊とともに生きていたのかも知れない、との痛みが伝わってくる。
 本作は、昭和の名匠とされる作家たちが取り組んできた反戦・反原爆の訴えを、どうすれば山田監督らしい後押しができるか、の思いから生まれたのではないか(オリジナルにこだわらない意思を感じる)。
 吉永さんの代名詞『夢千代日記』の「運命を背負う姿」、黒木監督『TOMORROW 明日:原作 井上光晴』に登場する長崎市電、『父と暮せば』で宮沢りえと結ばれる浅野忠信を、本作でも黒木華の婚約者に起用するなど、これまでの各人の活動をリスペクトするかのように次々と盛り込む姿勢に、山田監督らしからぬ覚悟のようなものを感じる。
 これまで、戦争を経験した監督たちの「これを撮らずに死ねるか!」の痛切な思いを受け止めてきたつもりだが、体験者が不在となるこれからの時代はどうなってしまうのか?

 井上ひさしの「ヒロシマ」「ナガサキ」「オキナワ」をテーマとした「三部作」構想は未完の幕引きとなった。
 本土人(ヤマトー)が何度も描いた『ひめゆりの塔』では物足りない、沖縄人(ウチナー)の心に響く物語を作りたかったに違いないと思う反面、戦争を描き切ることなど誰にもできない、とも……

 音楽(坂本龍一)もしっかりとした、とても映画らしい作品である。

2015/12/31

FOUJITA

2015.12.13

 監督・脚本:小栗康平
 出演:オダギリジョー、中谷美紀 、アナ・ジラルド、マリー・クレメール

 寡作ゆえ小栗康平監督の名は意識から消えていたが、10年ぶりの新作公開を知った際は、久しぶりに「昭和」という時代を体感できることへの、言い知れぬ高揚感があった。
 フランス語表記FOUJITA:藤田嗣治(つぐはる)という画家は、パリ・モンマルトル(異国人との融合から刺激を生み出した「芸術の都」)に最も馴染んだ日本人で、内証的とされる日本人的指向を打ち破った作品群は、芸術家のアイデンティティーを獲得した表現だったと言えるかも知れない。
 しかしパリで獲得した「狂気」は帰国後、祖国の「戦いから引けない狂気」にすり替えられ、ラスト前で三途の川に沈む『アッツ島玉砕』の制作へと追い込まれる。
 戦後、第二の故郷として焦がれるパリに戻るも、「今さら何を?」の扱いによる傷心から描いた教会の壁画には、時代への恨みと、それを乗り越えようとする祈りが込められている。
 絶望の淵にありながらも、時代と対峙する手段は絵筆の表現に限られる画家の、光を求める祈りが感じ取れたことは、本作の制作意図が伝わってきたということではないか。
 「遅れてきた昭和の名匠」とスクリーンでの再会を期待するも、それも祈る時節となってしまったのだろうか……

2015/07/27

海街diary

2015.07.19

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すず、大竹しのぶ、樹木希林

 これまでも家族のあり方をテーマにしてきた是枝監督は、本作では身近に感じられる題材を「寓話的」な切り口から問いかけてくる(原作は漫画作品)。
 「家族の形は不定形」を主題ととらえると、それは小津安二郎監督が繰り返しテーマとした「家族崩壊の危惧」に対する、現在からの返答ではないかと感じる面がある。
 現在の社会には、理解しがたい社会道徳や倫理の乱れが身近に出現し、これまでの規範や経験では対処できない事象が溢れるため、以前とは異なる危惧が迫っている。
 感情に走った両親(離縁・子供たちと別居)を恨む主人公だが、道を外れた感情を抱きながらも岐路では、「自分の感情」でなく「家族+腹違いの妹との絆」を選択する。
 義姉妹で心情が違うのは当然ながらも(長女は父を、義妹は母を恨む)、心の接点を見いだせば「姉妹」になれるはずと、「家族ごっこ」から「家族再生」を目指していく。
 『誰も知らない:2004年』の子供たちはここまで成長しました、の見方はあっても、「何も変わらない」状況においては、小津さんのように「若者を信じるしかない」と託す気持ちが込められるように感じた。

 役どころをきっちりこなす綾瀬はるかの姿には、この先への期待感を抱けた。
 当初は不安も感じたNHK大河ドラマ『八重の桜』が、肥やしとなったのではないか。
 姉妹の中で長身が際立つ長澤まさみは個性の表現と思うが、本作のような役に限定されそうな幅の狭さを感じた。
 夏帆の役柄は漫画的キャラクターが過ぎ、演出も彼女も表現未満の印象を受ける。
 アクション担当の広瀬すずはサッカー上手そう! に見せる、肝を押さえた演出は見事で、本当に上手ならば彼女をほめたい。
 だが、彼女への細かなポーズ要求に見えたシーンは、監督が自分の娘に向けるような親心とも感じられるが、彼女からのリターンパスは届かなかった気がする。
 それは世代間のギャップであり、「いつか分かって欲しい…」の期待感なのだろう。

 樹木希林のコメント「声をかければ、みな馳せ参じるような監督になられて…」(脇役はガッチリ固まっている)のように、現在の日本映画界で最も恵まれた監督が「家族のあり方」を描き続ける思いや、若者に希望をどう伝えるべきか?
 そんなチャレンジと感じられた本作は、とても大切な作品に感じられた。

2014/10/27

ふしぎな岬の物語

2014.10.14

 監督:成島出
 出演:吉永小百合、阿部寛、笑福亭鶴瓶、竹内結子

 吉永さん初プロデュース作品が発した「さゆりカラー」は見事で、彼女が映画に抱く世界観や心根に接した瞬間、「扉が開かれた」と響いたことが最大の収穫であろう。

 タイトルから観客は、寓話の楽しみと多少ベタつく潮っけを覚悟して席に着くが、吉永さんではなく、阿部寛のはみ出した活躍(?)により物語に取り込まれていく。
 阿部寛(近ごろは脱ぐのが仕事?)は得な役柄だが、体格の生かし方が上手になった。
 笑福亭鶴瓶が演じる、気は優しいが「スケベ心」がにじみ出てしまう「不器用な男」は、高倉健さんとは正反対のキャラクター(女性にはカワイイ存在)として存在感はあるが、彼は果たして演じているのだろうか?(彼の存在で画面がなごむのは確か)
 心の振幅を表に出さない吉永さんの持ち味は、亡き夫の影を隠すことで観客から「美しすぎる思い出」の妄想を引き出そうとする演出により、増幅されていく。

 本作が、吉永プロデュースの「映画作りますよ〜!」のかけ声に、「その指にとまりたい!」団塊世代のオヤジたちとの、初めの一歩のきっかけになって欲しいと願う。
 本作に関わる岡田裕介氏(映画プロデューサー、東映代表取締役会長)は、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1970年)等の俳優時代から吉永さんとは旧知の仲(裕介クンとか呼ばれそう)で、彼女の映画を支えてきたが、本当の意味で一肌脱ぐ時が来たのではないか。
 映画企画のキモは「夢の共有感」であり本作のように、吉永さんの「思い」に人々が集うための環境整備に汗をかいて、東映出演作を増やしていくべきであろう。

 これまでよりも、映画に一歩踏み込んだ吉永さんの姿勢には、勝手な思い込みだが、今後「さゆりプロデュース」を重ねる中から、「映画人 吉永小百合」らしい傑作映画が生まれる可能性を感じる(個人的には確信している)ので、業界の「サユリスト」たちは彼女が熱いうちに共同作業で「心からの汗」をかき、本望をとげるべきではないだろうか。
 わたしも「サユリスト」の一人として、手伝えることがあればと……


追記──もう一人の「映画スター」にもエールを!

 東映育ちの高倉健さんは、裕介氏の父 岡田茂氏との険悪な関係から「岡田さんのぼっちゃんの世話には……」となりそうだが、観客から待ち望まれている映画スターを生かせないことは、プロデューサーの力不足に他ならない。
 早期の次回作を! と、80歳を過ぎた方に求めるのは酷でも、また「背負ってもらいたい」と、わがままな観客は願っています……

2014/08/18

2つ目の窓

2014.8.14

 監督・脚本:河瀬直美
 出演:村上虹郎、吉永淳、杉本哲太、松田美由紀、常田富士男

 奄美・琉球に現代も息づく神と人をつなぐユタ(女性)と、アグレッシブな女性を描いてきた河瀬監督の出会いに期待を抱いたのだが……

 主人公の若い二人が自転車で疾走するシーンの爽快感は『キッズ・リターン』『魔女の宅急便』を想起させ、ヒロイン吉永淳の泳ぐ姿と島唄のうまさに目を奪われた。
 ダイビングが趣味である彼女の、着衣での舞うような潜りは「島のマーメイド」であり、吹奏楽部の経験からか堂々とした島唄も見事で、「島のヒロイン」としては絶好の素材であるが、「新たなユタの誕生」ではなく、島の一女性の成長として描こうとする。
 その選択は監督らしく、現在も奄美の生活は自然の一部を間借りして営まれるも、「ここで生きているのは自分たち」という、人間本位的な視点が強く感じられる。
 これまでの文化や生活を否定する意図は無いも「一歩踏み出す姿勢」を訴えるためか、監督は「自然への畏怖(いふ)」についてセリフで説明してしまう。
 分かりやすさといえ、島の高校生に対する言葉としては野暮で、観る側は軽んじられたとシラケてしまう(場内のシラケた空気を久しぶりに味わった)。
 観客の持つイメージを裏切った(シラケさせた)状況から、少女が飛び立つことを描きたかったのではと思うが、本作での女性の積極的行動には「答えを欲しがる焦り」という、都会のキャリアウーマンに通じる印象が強く感じられた。
 それは過酷な環境で生きる女性たちへのエールで、島(日本)で生活する女性への「模索して踏み出すべし」のメッセージとも受け止められるが……

 ニライカナイ(海のかなたにあるとされる異界)に至らない監督の意志の強さは理解するも、海のない奈良県出身の監督は、海に囲まれた奄美の精神風土を消化できているとは感じられなかった。
 今回の事前合宿は楽しいものだったのだろうか?

2014/02/24

小さいおうち

2014.2.11

 監督:山田洋次
 脚本:山田洋次、平松恵美子
 原作:中島京子
 音楽:久石譲
 出演:黒木華、倍賞千恵子、松たか子、吉岡秀隆、妻夫木聡

 原作の設定としても、戦前という時代背景に昭和モダンの象徴として洋風建築の「小さいおうち」を据えた舞台設定こそが、本作成功の重要なキーと思えた。

 前作『東京家族』は小津安二郎監督へのオマージュであるも、両監督間にある大きな溝を再認識するものとなった。
 前作とは無関係に見える本作だが、小津さんが生きた時代を描くためか、小津作品を手本としたようなセリフ回しに聞こえるにつれ、作家の精神というものが重なるような思いが高まってくる。
 山田監督と共同脚本の平松氏にとって、昭和モダンのイメージ=小津安二郎だったのではないかと思え、ドラマの起伏を作りたがる監督に「忍ぶ物語」を作らせたのは、小津さんの生き様が影響したのではないか、と思いたくなる。
 小津さんが描いた様々な「昭和モダン」は庶民のあこがれであっても、その視点には「ひがみ」「ねたみ」も込められていた。
 一方の山田監督は、それを「ありがたく、楽しげに」描くと共に、当時の国民は「国威発情」に積極的ではなかったとアピールするモデルを、小津さんの姿に重ねたのではあるまいか?
 生きる時代が違うため同じテーマ設定は難しいこともあり、戦争の時代を生きた人物の思いを回想して終わる物語には、監督の「小津のオヤジはきっとこう生きたのでは?」の思いが込めらているように感じ、小津監督へのアンサーとなる成功作と思う。

 ベルリン国際映画祭で主演女優賞を受賞した、黒木華(はる)の抑えめの演技は時代を表現し心地よく、唯一のアクション(自主的行動)で存在感を発揮する姿は、当時の女性表現には的確な演出と思われとても引かれた。
 好きではなかった松たか子に注目できたのは、ただ「奔放に生きる」のではなく、理性を持ちながら本能と葛藤する女性を演じたことによるのだろう(当時の人々もみな人生を謳歌しようとしていたはず)。
 妻夫木聡の若者が「学んだ歴史観」と、倍賞さんが当時「体験」したギャップから史実を立体視することは重要で、語り部側の記憶(人物)が失われるというテーマは、いつの時代にも共通する問題だが、現実に直面する時を迎えつつある……

 倍賞さんと山田監督はまさに「家族同様」らしく、楽しそうな倍賞さんを目にできたことがとてもうれしく、もっともっと観せてもらいたい!
 久石譲の音楽は、倍賞さんが声で出演した『ハウルの動く城』へのオマージュのように聴こえ(似てると感じ)、何ともチャーミング!

2013/11/11

そして父になる

2013.11.02

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキー

 重いテーマの『誰も知らない』(2004年)同様に静かなトーンの画面に、小学校入試の面接で「明朗快活」な家族を演じる姿が映し出される。
 心を伝える言葉の少ない家族劇では想像力が必要と思うも、概して言葉は少なく説明不足な日本男児と、言葉は多くも真意が伝わりにくい大和撫子の間に立つ子どもが、歯に衣着せぬ言葉で問題の本質をあばく溶媒(ようばい)とされるのは、世間の実態と離れるものではない。

 本作では子どもの取り違いを、親が考える子育てと子どもが欲する親の姿のミスマッチとして表現することで、題材を身近な事象に引き寄せようとする。
 産みの親でも我が子を見失う恐れのある病院システムの問題を、助産師の女性があばいてみせ、実子ではない彼女の子どもが育ての親をかばおうとする場面は現実にも起こりうるわけで、助産師の行動に納得できずとも、理解可能な寓話的設定と附に落ちる。
 体面や法律で重んじられる「血縁関係」や、「似てる」「似てない」への疑念も、人間の「愛情」はこれまでも乗り越えてきたはずと、監督は「和」を明示して幕を閉じる。
 それは、不信からも信頼関係が芽吹く可能性を信じようとする希望であり、われわれの未来はそんな愛情によってこそ開かれるのではないか? の問いかけと受け止める。

 演出の要求と思うが、福山は「ガリレオ」の仮面のような演技だけ、尾野も内面から出るものを抑えられ、見せ場不足の印象もある。
 そんな中、これまで好感を持てなかった真木よう子(実生活でも親)の母親ぶりが、とてもかっこよく見えた(鍛えた腕っ節に驚き!)。
 「母親」の自覚というものは、たとえ演じることはできても、決して隠せるものではないことを、彼女から感じさせてもらった気がする。

 静かに移動するカメラアングルが、人心の動きや状況変化を映し観る者に緊張感を与える演出は、タルコフスキーの映像を想起させ、普遍性を目指す意図が感じられた……

2013/10/14

風立ちぬ

2013.9.15

原作・脚本・監督:宮崎駿
音楽:久石譲
声の出演:庵野秀明、瀧本美織

 宮崎さんの卒業制作らしい「物づくりの現場」に向けた、「夢は実現するもの」という本田宗一郎のメッセージのようである。

 物語の中で多々登場する「美しい」の表現には、完璧という願望が込められているが、「飛行機は完璧でなければ飛べない」との意味らしい。
 日本の飛行機開発は「落ちて当たり前」という状況から、独自に研究を進めてきた経緯には驚いたが、落ちることに慣れた現場の「負け犬的な空気」を、決して暗く描かないところに宮崎さんの本意が感じられる。

 夢のシーンの多さは、第一次世界大戦などの経験から、当時の日本は技術不足を自覚していたことの表現なのだろう。
 一般的なドラマでは、「プロジェクトX」的な成功への道を描きたくなるが、宮崎さんは空へのロマンと、恋愛という抽象的なストーリーを選択する。
 しかし、菜穂子との出会いは「美しく」表現できていただろうか。
 大震災で波打つ家屋の表現は見事でも、人や物の動きに比べて心の動きというものは、その何百倍も波打っていたのではあるまいか?

 ここに描かれているのは宮崎駿本人の「夢」であるために、その思いは個人的なロマンの限界を超えられなかった印象がある。

 決して成功作とは思えないが、宮崎さんの本音を、堀越二郎の姿を借りて表現した作業は卒業制作にふさわしい作品と思える。

2013/02/19

東京家族

2013.2.10

 監督:山田洋次
 脚本:山田洋次、平松恵美子
 音楽:久石譲
 出演:橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、林家正蔵、妻夫木聡、蒼井優

 デビュー当時の山田洋次監督は受け入れられなかったという小津作品を、リメークではなく「オマージュ:賛辞」をテーマに取り組んだ姿勢に、監督の「総括:けじめ」の意志が感じられた。

 世界的に愛され続ける『東京物語:1953年』をいま手がける姿勢には、キッチリと「山田洋次的視点」が込められており、さすが老いても「日本のエース」の貫録がある。
 当時とは画面サイズが違う横長の画面であるが、意識的に小津作品のような引いたローアングルから絵を切り取り、間口の狭い現代家屋の窮屈さを際立たせている。
 4:3のスタンダードサイズで撮られた小津作品は、全編「奥行き」が意識されている(再見後のコメント)。

 しかし「小津ポジション」とされるローアングルを意識するも、サラッとこなされた感があり、深みを求める方がやぼとの開き直りに感じられる。
 そこには、山田洋次が目指す「生身のぶつかり合いから生まれるドラマ」(彼の演出にも制約が多いと感じるが)と、小津安二郎が構築した「作られた物語の役割を求める」姿勢との違いが明確に表れており、本作の製作動機とも感じられる。
 旧作では戦後の傷跡を描いたのに対し、本作では大震災に触れようとする意欲は理解できるし、旧作の香川京子さんの役割である若さに希望を託す時間軸を、地域の絆への希望となる横軸の表現者である隣人に託した手腕には、山田洋次カラーが見て取れ納得させられる(ズルイと感じさせるのがこの人のカラー)。

 セリフが小津作品のままと思われる場面よりも、ラスト近くで蒼井優が現代の若者らしく率直に語る口元に、原節子さんの口の動きが見えた一瞬に目が止まる。
 錯覚であれ、どちらも観客のこころをつかむ名シーン・演技であるからこそ、観客に記憶のかなたからオリジナルの記憶を呼び起こし、シンクロさせようとする意識を喚起させたのだろう。本作の狙いが見事に成功した場面である。
 役者は皆さん素晴らしかったが、笠智衆さんの「短歌を詠むような」セリフの美しさは、いまの時代に求めること自体無理なのかも知れない……


 後日、『東京物語』のレンタル再見で感じたのは、本作は「レンタルの機会しか無いが『東京物語』を見て下さい」との壮大な宣伝だったのか? というもので、山田洋次には最初から小津さんに挑む気持ちなど無いことが見えてくる。
 作品を比較することは、当時の人々と現代のわれわれでは、どちらが幸せか? とするようなもので、答えなど存在しない。
 しかし再見した『東京物語』の丁寧な作りからは、作り手が「いい物を作り」、それを観客が「よかったねぇ」と楽しめる「質が豊かな時代」であったことが想像され、うらやましさを押さえられない……


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2012/12/03

北のカナリアたち

2012.11.23

 監督:阪本順治
 撮影:木村大作
 脚本:那須真知子
 出演:吉永小百合、森山未來、満島ひかり、勝地涼、宮﨑あおい、小池栄子、松田龍平、柴田恭兵、仲村トオル、里見浩太朗


 本作が目指したであろう「日本映画ここにあり!」の主張が、きっちりと伝わる作品である。
 テーマは「世代間のたすき受け渡し」で、創立60周年の東映は「今後も若い人材を育てていく」覚悟を示そうとしたのであろう。
 その意図は、豪華なスタッフ・キャストを率いる作品演出に指名された、阪本監督の覚悟により結実したように思える。

 推理小説的な物語展開で、同じ場面を各人物の視線からの異なるアングルで見せる絵作りの生かし方(立体視的視点)、出演者が自由に振る舞える舞台を設定し、伸び伸び演じさせようとする阪本演出のメリハリには、現在「日本映画監督のエース:原田芳雄が遺作『大鹿村騒動記』に指名した」の力が感じられる。
 その『大鹿村〜』の演出経験が、取り組みに対する覚悟を変えたのでは? と感じるほど本作には「どっしり」とした存在感がある。
 とても「日本映画らしい作品」であり、記憶に残るであろうインパクトを受けた。

 演出と切り離せない「冬の海」の迫力はとんとごぶさたの感があり、さすが木村大作カメラ(『劔岳 点の記』の監督)と拍手! しかし、後継者は大丈夫なのか?

 こちらも久しぶりの印象がある脚本の那須真知子も、核心部に触れるまでの緊張感の持続は見事で、特に前半は脚本の力にグイグイ引っ張られる印象があり、感心させられた。

 吉永小百合さん(地味な化粧でも引き込まれる67歳!?)は「受け」の演技で輝きを放つが、そこにしたたかさを秘めた本作の人物像は、彼女向けに構築された印象すら感じるほどのはまり役(どうしても出てくる『細雪:1983年』雪子役を超えたとも)。
 若者たちの体格が大きいため、小さく見える姿からにじみ出る年輪に現実味があり、生徒役の現在一線で活躍する若手役者たちが、小者(子ども)のように見えてくる。
 森山未來、満島ひかり、宮﨑あおい、松田龍平らも、吉永さんの前では「変なことはできない」と、観念したように見える対峙場面はどれも見せ場だが、その実を吉永さんが全部総取りしてしまう、貫録の痛快さ!(それがスターの姿で、小者たちには芸の肥やしとなる)。
 演出・脚本たちが結末を秘めながら積み重ねた作業は、観客が期待する吉永さんという存在に収れんし「スターの本領発揮!」の場面にバトンが渡される。
 吉永さんの、教え子を守ろうとする「覚悟」「信念」に接し、先生を注視する教え子たち(=観客)は感銘を受けることになる。

 近ごろの吉永さんに対する演出は、あの人しか持ち得ない「オーラ」を消そうとするばかりだったが、本作演出の「それを何とか写したい」との狙いが成功の要因に思える。

 子どもたちの「心の支え」となる人物として、吉永さんを設定した狙いは成功であり、現代版『二十四の瞳』(本作は十二の瞳)の随所から、木下恵介監督、高峰秀子さんを想起するも、比較して決して引けをとらない出来栄えとなっている。

 健さん同様、背負わされたものに耐えながら道を見いだす人物像を応援したい気持ちは変わらないが、演ずる人が不在となれば、そんな「愛すべき生き様」にこそが日本人の美しさがある、と受け止められる時代が終わってしまうような気がしてならない。
 健さん、吉永さんともに映画に捧げる人生を歩んでくださいますよう。
 われわれは、見届ける義務をまっとうします!

2012/10/03

ライク・サムワン・イン・ラブ

2012.9.28

 監督・脚本:アッバス・キアロスタミ
 出演:奥野匡、高梨臨、加瀬亮

 こんな夢「キアロスタミが日本語で映画を撮ったら?」は実現不可能と想像すらしなかったせいか、実際に接した第一印象は「めんどくせー」に尽きる。
 これまでの彼の映画にも「まどろっこしさ」は付きものだったが、それは言葉や習慣の違いから咀嚼(そしゃく)できないものと、理解を放棄するいい訳としていた。
 しかし本作では、いちいち言葉がつまる理由や、あいまいな態度の裏側まで理解できるため、「うんざりできる満足感(?)」がある。
  これまでの作品でもディテールを積み重ねていたことの裏が取れ、とてつもない労力の上に成り立っていることを、初めて納得できた気がする。

 そんな再認識はつまるところ、監督が人々を見つめる視線に引かれる、自身の嗜好(しこう)を再確認させられたわけで、またも見事に術中にはまった印象がある……

 キアロスタミはこれまでも、決して視線が交わらない舞台装置として、自動車の車内を好んで使用してきた。
 『そして人生はつづく』(1992年)では、地震の被災地を訪ね回る心細さをひとりの絵で、『桜桃の味』(97年)では、自殺の手助けを求める主人公とそれを断る助手席との二人の絵を、『トスカーナの贋作』(2010年)では偽物夫婦の並ぶ絵があった。
 本作では、後部座席にも座らせ三人の視線が交わらない構図を生み出している。それは、これまで以上に複雑な人間関係を表現するためとも見えるが、シンプルに受け止めれば「病的な関係」の表現手段であることに気付かされる。
 構図としては、若い娘を奪い合う老人と青年という図式だが、全員がそれぞれに虚像を演じていたとすれば、末路は明白になってくる。

 「好きではない対象」でも観察してしまう自分(好きではない理由を納得したい)でも、決して人間嫌いにはならないことを気付かせてくれた思いがし、自分の中で彼のライブラリのエポック的存在となる気がする。

2012/09/23

あなたへ

2012.9.16

 監督:降旗康男
 脚本:青島武
 出演:高倉健、田中裕子、佐藤浩市、草なぎ剛、余貴美子、綾瀬はるか、大滝秀治、長塚京三、原田美枝子、浅野忠信、ビートたけし

 近ごろは日本映画を観るたびに、さみしさばかりを感じてしまう。
 映画と出会いのめり込み、四隅まで見逃さぬようかじり付いた銀幕(スクリーン)で活躍された方々もお年を召され、現役でおられる姿を「いとおしむように」拝見をすることが、申し訳ないというか悔しくてならない。
 現に、大滝秀治・高倉健の共演はこの先も観られるだろうか? と思うと、胸が詰まる……

 実に見事すぎる「健さん映画」(「寅さん映画」に通じる理解と同じ)で、「高倉健の背中」に何を、どう背負わせるべきなのかを脚本・演出は承知しているので、物語が進むにつれ「健さんの背中」は観る者の期待通り、寡黙ながらも語り始める。

 キャストの配置と生かし方も見事で、出演者に名前を挙げた方々はもちろん全員素晴らしかったが、特に、若い綾瀬はるかの生かされ方は今後の自信になると思え、浅野忠信は物語を引き締めるポイントを作った印象として残る。

 各所でCGと思われる絵が目についたが、それは故意にむかしの合成風な演出をしたように思えた(CGを使うも「アナログ映画」を作る自負なのか)。
 勝手な想像だが、高倉健主演『八甲田山』(1977年)の撮影を担当した木村大作が、初の監督作品『劒岳 点の記』(2009年)をすべて実写撮影した事へのオマージュではないか? とも思える。
 同作の演出を依頼された降旗監督は健康上の理由から断り、やむなく木村が自らメガホンを取り、高倉健も「もう八甲田山はできない」と語る。
 実写にかなうものはない!(だが、われわれには実写にこだわる体力はない)との表現にも感じられる。

 健さんの映画をあと何本観られるのだろうか?
 劇場の予告編で目にした吉永小百合さんまでが、わたしの中の「銀幕のスタア」でありこの先はどうしたものかと……
 いま思うと、映画へのあこがれは、スタアだったり、才気あふれる先人への憧憬であったことを、この期に及んでようやく理解できた気がする。
 その灯がひとつひとつ消えてしまう近ごろは、わたしの映画への情熱もひとつずつ失われていくように思えてならない……

 「これが職人の造る映画だ!」の自負に敬服するも、ひょっとすると「もうこのような映画は観られなくなるのか?」という、現実が目前に迫っているような絶望感がある。


 追記
 NHKの「高倉健」ドキュメント番組2本を録画して、映画鑑賞後に目にした。
 そこでは「役者 高倉健」としての覚悟が語られているだけに、今後も数多くの作品で出会いたい! と切に望むばかりである……