2009/10/19

ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~

2009.10.15

 監督:根岸吉太郎
 脚本:田中陽造
 出演:松たか子、浅野忠信

 ファーストシーンの、主人公である浅野忠信が暗闇を駆けてくるシーンには、いきなり食いついてしまう迫力がありました。
 作品テーマのようなシーンですから、力が入っていたようです。

 原作者である太宰治の、生誕100年という節目に企画された作品なので、本作の製作意図には「太宰の人物像を多角的な視点から浮かび上がらせる」ことが、念頭に置かれているようです。
 本作では、表題作に加え「思ひ出」「灯籠」「姥捨」「きりぎりす」「桜桃」「二十世紀旗手」等の作品からもエピソードを抽出(公式ホームページより)することで、太宰像をあぶり出そうとしています。
 タイトルまでは記憶していませんが、覚えのあるイメージが散りばめられており、詳しくないのですが、わたしなりの太宰像に近しい印象を受けました。

 監督の思いも強かったと思われますが、その功績は脚本の田中陽造さんの力によるものだと思われます。
 この方の成功作『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)等では、妖術(?)を使って脚本を書いているのでは、と思われるような、不可思議な世界が造形されるので、怪しいと思いながらも引き込まれてしまう、ワンダーワールドが繰り広げられていきます。
 また、監督も脂がのっているようで、近作の『雪に願うこと』(2005年)、『サイドカーに犬』(2007年)は共に印象に残っていますが、本作では風格すら感じさせられました。

 不道徳とされる問題を次々に起こす夫を、懸命に支える妻の「何事も受け止める包容力」には、心を揺さぶられます。
 どんな存在であっても救うことのできない人物でありながらも、妻に背負わせた不道徳すらも「心の闇」に吸い込もうとする太宰に対して、妻が差し伸べる「生きていればいいのよ」の言葉で終わらせたのは、見事な終幕であったと思います。
 しかし、ここに描かれているのは太宰治であると認識しているわれわれは、それでも太宰は死を選ぶという「映画には描かれない結末」を、心の中に持ち合わせています。
 結局作者側(監督・脚本)は、ポジフィルムでは太宰治という「心の闇」を描くことはできないことを、白状しているように思えます。
 本作のテーマは、エンドマークの後で観客自身に、この物語をネガフィルムに反転してもらうことなのではないか? とも思えます。
 しかしそれは、物語が完結できていないことの裏返しでもありますが、現在でも新たな読者を増やし続ける「心の闇」という身近なテーマを、映画で訴える手段としては、かなり近しいものに思えます。
 ──ネガ・ポジの例えを用いるのは、とても古くさい表現だと思いつつも……


 そんなスタッフに比べ、演技陣には物足りなさが感じられます。
 松たか子(彼女は舞台向きの役者ではないか?)の懸命な姿勢は見て取れるのですが、内面から伝わるモノが感じられませんし、浅野忠信には近ごろ、小手先でこなそうとしているような薄っぺらさが感じられます。
 監督に要求されるものが、とても難しいことは理解できますが、妻夫木聡のように懸命な姿勢が見たかった気がします。

 ヴィヨンとは、高い学識を持ちながら悪事に加わり、逃亡・入獄・放浪の生活を送った、フランス中世末期の近代詩の先駆者フランソワ・ヴィヨンのこと。無頼で放蕩な人の例えとして使われている。(公式ホームページより)

2009/10/05

空気人形

2009.9.29

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:ペ・ドゥナ

 空気人形とは、空気で膨らます人間の形をした人形で、その役割は
 「わたしは空気人形。性欲処理の代用品」
 というものになります。
 日本映画のそのような役柄であるにもかかわらず、韓国の女優であるペ・ドゥナがよく出演を決断したものだ、と驚かされました。
 空気人形が「心を持つ」物語において、無垢(むく)な存在の言葉が、たどたどしい日本語であることは、とても大きな要素であることは確かです。
 ──むかしの映画『田園に死す』(1974年 監督:寺山修二)には、「空気女」(春川ますみ )という見せ物小屋の人気者がいたりしましたが、それは寺山修二の創作による哀れな存在であったと思います。

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 ダッチワイフの語源となるダッチ(Dutch)には、オランダを蔑視(べっし)する意味があるそうです。
 植民地時代の商売敵であるイギリス人やアメリカ人が悪口として、「Dutch Wife(オランダ風妻)」として呼んだという説があるそうで、現在では「Sex Doll」と呼ばれるそうです。
 監督が説明に使っていたラブドールを調べてみたのですが、これは風船ではなく、豊胸等に使用されるシリコーンで作られた人形になるそうなので、柔らかなマネキン人形のイメージでしょうか。
 その辺りはあまり掘り下げないつもりだったのですが、世界的にもかなりディープな世界が広がっているようで驚きました。
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 「中身が空っぽな存在(人間)を同類と認識する意識」「日差しによる陰が透き通ってしまう造形」「息を吹き込まれるエクスタシー」等々の腐心は見事です。
 そんな情景描写の積み重ねの部分では、昨年亡くなった市川準(じゅん:『病院で死ぬということ』等の監督)さんを想起させられ、また、苦悩の決断によるその選択について、こちらが思いをめぐらする部分では、こちらも亡くなられた相米慎二(『台風クラブ』等の監督)さんが想起させられました。
 おそらく、狙っていた場面は思い通りに撮れていても、ファンタジーとしての着地点を模索していたように思えました。
 韓国映画のような散り方にも感じられますし、中身は空のラムネの瓶でも「向こう側の景色はぼやけてしか見えない」ところが、日本映画的であるとも言える気がします。

 批判と取られそうなことを書きましたが、本作はとても「映画らしい作品」だと思います。
 作り手側の苦悩・奮闘ぶりを感じさせてくれる部分が、とても映画らしいのではないか、と思われた作品です。
 韓国国民の感情を逆なでして、国際問題の火種にならないようにと、最後まで腐心されていたのではないでしょうか。それはまさに「チャレンジ精神」と言えるかも知れません。
 ビニールの接合部分の跡を化粧で消してもらうシーン等には、ペ・ドゥナの素顔が出ているようにも思えたので、彼女自身にも満足感はあったのではないだろうか。

 撮影の李屏賓(リー・ピンビン)は、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)や王家衛(ウォン・カーウァイ)の作品を手がけた方です。
 出番は少ないにしても脇役陣の押さえ方は、構成力によるものと思います。
 是枝裕和作品には、『幻の光』『誰も知らない』『歩いても 歩いても』等があります。