2013.11.02
監督・脚本:是枝裕和
出演:福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキー
重いテーマの『誰も知らない』(2004年)同様に静かなトーンの画面に、小学校入試の面接で「明朗快活」な家族を演じる姿が映し出される。
心を伝える言葉の少ない家族劇では想像力が必要と思うも、概して言葉は少なく説明不足な日本男児と、言葉は多くも真意が伝わりにくい大和撫子の間に立つ子どもが、歯に衣着せぬ言葉で問題の本質をあばく溶媒(ようばい)とされるのは、世間の実態と離れるものではない。
本作では子どもの取り違いを、親が考える子育てと子どもが欲する親の姿のミスマッチとして表現することで、題材を身近な事象に引き寄せようとする。
産みの親でも我が子を見失う恐れのある病院システムの問題を、助産師の女性があばいてみせ、実子ではない彼女の子どもが育ての親をかばおうとする場面は現実にも起こりうるわけで、助産師の行動に納得できずとも、理解可能な寓話的設定と附に落ちる。
体面や法律で重んじられる「血縁関係」や、「似てる」「似てない」への疑念も、人間の「愛情」はこれまでも乗り越えてきたはずと、監督は「和」を明示して幕を閉じる。
それは、不信からも信頼関係が芽吹く可能性を信じようとする希望であり、われわれの未来はそんな愛情によってこそ開かれるのではないか? の問いかけと受け止める。
演出の要求と思うが、福山は「ガリレオ」の仮面のような演技だけ、尾野も内面から出るものを抑えられ、見せ場不足の印象もある。
そんな中、これまで好感を持てなかった真木よう子(実生活でも親)の母親ぶりが、とてもかっこよく見えた(鍛えた腕っ節に驚き!)。
「母親」の自覚というものは、たとえ演じることはできても、決して隠せるものではないことを、彼女から感じさせてもらった気がする。
静かに移動するカメラアングルが、人心の動きや状況変化を映し観る者に緊張感を与える演出は、タルコフスキーの映像を想起させ、普遍性を目指す意図が感じられた……