2013/11/11

そして父になる

2013.11.02

 監督・脚本:是枝裕和
 出演:福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキー

 重いテーマの『誰も知らない』(2004年)同様に静かなトーンの画面に、小学校入試の面接で「明朗快活」な家族を演じる姿が映し出される。
 心を伝える言葉の少ない家族劇では想像力が必要と思うも、概して言葉は少なく説明不足な日本男児と、言葉は多くも真意が伝わりにくい大和撫子の間に立つ子どもが、歯に衣着せぬ言葉で問題の本質をあばく溶媒(ようばい)とされるのは、世間の実態と離れるものではない。

 本作では子どもの取り違いを、親が考える子育てと子どもが欲する親の姿のミスマッチとして表現することで、題材を身近な事象に引き寄せようとする。
 産みの親でも我が子を見失う恐れのある病院システムの問題を、助産師の女性があばいてみせ、実子ではない彼女の子どもが育ての親をかばおうとする場面は現実にも起こりうるわけで、助産師の行動に納得できずとも、理解可能な寓話的設定と附に落ちる。
 体面や法律で重んじられる「血縁関係」や、「似てる」「似てない」への疑念も、人間の「愛情」はこれまでも乗り越えてきたはずと、監督は「和」を明示して幕を閉じる。
 それは、不信からも信頼関係が芽吹く可能性を信じようとする希望であり、われわれの未来はそんな愛情によってこそ開かれるのではないか? の問いかけと受け止める。

 演出の要求と思うが、福山は「ガリレオ」の仮面のような演技だけ、尾野も内面から出るものを抑えられ、見せ場不足の印象もある。
 そんな中、これまで好感を持てなかった真木よう子(実生活でも親)の母親ぶりが、とてもかっこよく見えた(鍛えた腕っ節に驚き!)。
 「母親」の自覚というものは、たとえ演じることはできても、決して隠せるものではないことを、彼女から感じさせてもらった気がする。

 静かに移動するカメラアングルが、人心の動きや状況変化を映し観る者に緊張感を与える演出は、タルコフスキーの映像を想起させ、普遍性を目指す意図が感じられた……

2013/10/14

風立ちぬ

2013.9.15

原作・脚本・監督:宮崎駿
音楽:久石譲
声の出演:庵野秀明、瀧本美織

 宮崎さんの卒業制作らしい「物づくりの現場」に向けた、「夢は実現するもの」という本田宗一郎のメッセージのようである。

 物語の中で多々登場する「美しい」の表現には、完璧という願望が込められているが、「飛行機は完璧でなければ飛べない」との意味らしい。
 日本の飛行機開発は「落ちて当たり前」という状況から、独自に研究を進めてきた経緯には驚いたが、落ちることに慣れた現場の「負け犬的な空気」を、決して暗く描かないところに宮崎さんの本意が感じられる。

 夢のシーンの多さは、第一次世界大戦などの経験から、当時の日本は技術不足を自覚していたことの表現なのだろう。
 一般的なドラマでは、「プロジェクトX」的な成功への道を描きたくなるが、宮崎さんは空へのロマンと、恋愛という抽象的なストーリーを選択する。
 しかし、菜穂子との出会いは「美しく」表現できていただろうか。
 大震災で波打つ家屋の表現は見事でも、人や物の動きに比べて心の動きというものは、その何百倍も波打っていたのではあるまいか?

 ここに描かれているのは宮崎駿本人の「夢」であるために、その思いは個人的なロマンの限界を超えられなかった印象がある。

 決して成功作とは思えないが、宮崎さんの本音を、堀越二郎の姿を借りて表現した作業は卒業制作にふさわしい作品と思える。

2013/02/19

東京家族

2013.2.10

 監督:山田洋次
 脚本:山田洋次、平松恵美子
 音楽:久石譲
 出演:橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、林家正蔵、妻夫木聡、蒼井優

 デビュー当時の山田洋次監督は受け入れられなかったという小津作品を、リメークではなく「オマージュ:賛辞」をテーマに取り組んだ姿勢に、監督の「総括:けじめ」の意志が感じられた。

 世界的に愛され続ける『東京物語:1953年』をいま手がける姿勢には、キッチリと「山田洋次的視点」が込められており、さすが老いても「日本のエース」の貫録がある。
 当時とは画面サイズが違う横長の画面であるが、意識的に小津作品のような引いたローアングルから絵を切り取り、間口の狭い現代家屋の窮屈さを際立たせている。
 4:3のスタンダードサイズで撮られた小津作品は、全編「奥行き」が意識されている(再見後のコメント)。

 しかし「小津ポジション」とされるローアングルを意識するも、サラッとこなされた感があり、深みを求める方がやぼとの開き直りに感じられる。
 そこには、山田洋次が目指す「生身のぶつかり合いから生まれるドラマ」(彼の演出にも制約が多いと感じるが)と、小津安二郎が構築した「作られた物語の役割を求める」姿勢との違いが明確に表れており、本作の製作動機とも感じられる。
 旧作では戦後の傷跡を描いたのに対し、本作では大震災に触れようとする意欲は理解できるし、旧作の香川京子さんの役割である若さに希望を託す時間軸を、地域の絆への希望となる横軸の表現者である隣人に託した手腕には、山田洋次カラーが見て取れ納得させられる(ズルイと感じさせるのがこの人のカラー)。

 セリフが小津作品のままと思われる場面よりも、ラスト近くで蒼井優が現代の若者らしく率直に語る口元に、原節子さんの口の動きが見えた一瞬に目が止まる。
 錯覚であれ、どちらも観客のこころをつかむ名シーン・演技であるからこそ、観客に記憶のかなたからオリジナルの記憶を呼び起こし、シンクロさせようとする意識を喚起させたのだろう。本作の狙いが見事に成功した場面である。
 役者は皆さん素晴らしかったが、笠智衆さんの「短歌を詠むような」セリフの美しさは、いまの時代に求めること自体無理なのかも知れない……


 後日、『東京物語』のレンタル再見で感じたのは、本作は「レンタルの機会しか無いが『東京物語』を見て下さい」との壮大な宣伝だったのか? というもので、山田洋次には最初から小津さんに挑む気持ちなど無いことが見えてくる。
 作品を比較することは、当時の人々と現代のわれわれでは、どちらが幸せか? とするようなもので、答えなど存在しない。
 しかし再見した『東京物語』の丁寧な作りからは、作り手が「いい物を作り」、それを観客が「よかったねぇ」と楽しめる「質が豊かな時代」であったことが想像され、うらやましさを押さえられない……


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