2010.12.29
監督・脚本:トラン・アン・ユン
撮影:李屏賓(リー・ピンビン)
出演:松山ケンイチ、菊地凛子
この文章は、原作ばかりか村上春樹の文章に接したことのない人格が記すことをご承知下さい。
社会背景に「フリーセックス」(現在ではやりまくりという意味に使われているようで驚いたが、当時は婚前交渉を認めるべきというムーブメントだったと思う)が浸透していった1960年代、「愛≠セックス」という事態に直面し、子孫繁栄を目的としない精神の解放や高揚感をセックスに求めた若者たちの物語であり(悩み・苦しむ方がいることも確かです)、それは現代にも通じる性意識の乱れに対しての、都合のいい言い訳の起源とも受け止められる。
日本人も欧米諸国の性意識を目指したのか、当時の団塊世代(時代)の映画には、セックスに特別な意味を持たせようとする作品が多く、下の世代には、それが「青春の門」なのか? という、大人世界への期待感を抱かせる影響力があった。
結局は、ジュニア世代を生み出すための幻想が必要なだけで、その後は、同世代間での厳しい競争に勝ち抜くため社会活動に精力を注ぎ、日本の繁栄を生み出すことになる。
団塊下のわれわれの世代は彼らを手本に世を乱してきたが、団塊ジュニア世代が親のお墨付きで「自由(放任)」に振る舞う現在の風紀の乱れは、お目付役不在の末世のようにも思える(とは言い過ぎか?)。
「グリーン」や「水(湿度、濡れた感情)」のイメージが強く残るのは、監督トラン・アン・ユン(12歳でベトナム戦争を逃れるためフランスに移住)作風の特徴で、『青いパパイヤの香り』(1993年)『シクロ』(1995年)『夏至』(2000年)などでも効果的に使われ、監督名と共に印象に残る。
監督の故郷であるベトナム(アジア)への強い思いが、この作品を「アジアの森」という世界観に結実させたと思うが、それは狙いではなくあるべき姿という気がしてくる。
彼は熱帯〜亜熱帯地域に広がるアジアの湿度感というものを、日本人も持ち合わせることを理解しているようである。
そんな湿度感は、男女を問わず瞳を潤させ(異性とのセックスを求めるサインを発し)、混沌とした状況に手を差しのべてくれると見立てた相手と、交わろうと誘引させる「空気感」として描かれている。
ここには心身の不全でその機能が果たせずに、心まで枯れ果ててしまうヒロインが存在するが、それを純愛と扱わず「心の混沌(時代のうねり)」とする姿勢に、原作者(演出)のメッセージが込められている。
「グリーン」「水」という人間にとても密接な存在を、人の営みにシンクロさせようとする静かな画面(本作は少し騒がしかった気がする)には、常に気の抜けない時間が流れており、時にそれは観る者を映す水鏡のようでもある。
可愛いという記憶のない(失礼)菊地凛子だが、本作のようにエキセントリックな役柄では不思議な魅力を発し、とても印象に残り驚かされた。
撮影の李屏賓(リー・ピンビン:台湾)の名前を最近よく目にするが(『空気人形』 『トロッコ』←観たかった)、海外で活躍する日本人カメラマンの出現も期待したい。
観終わった後も、頭の中で勝手にビートルズのタイトル曲がリフレインされるのは、曲? or 映画? どっちのせい? と思うも、それはトータルとして映画の力であるはずだが、作品の空気感だけが曲と共に余韻として残った気がするのは、映画の力が足りなかったのか?
『ノルウェイの森』とは、ビートルズのアルバム(『ラバー・ソウル』:1965年)が発売された60年代の混沌とした時代背景を指し、登場人物たちがその時代に居場所を見いだせない様を、森の中でさまよう姿に例えるような見事なタイトルと受け止められる。
ただし原題の『Norwegian Wood』は、Woodsという森を示すワードではなく、ノルウェー製の「家具」「木製品」が正しいとのこと。
とすると、タイトルの誤訳的な勘違いが通じるのは日本だけとなるが、結果的に森の湿度感が伝わるので、受け止めやすかったのではあるまいか。
ちなみにこの曲は、ジョンが浮気を告白した歌だそう。
映画らしい作品だったので、監督の次回作も楽しみにしたい。