2011/08/31

一枚のハガキ

2011.8.27

 監督・脚本・原作:新藤兼人
 出演:大竹しのぶ、豊川悦司、大杉漣、六平直政、柄本明、倍賞美津子、津川雅彦

 大変失礼な表現だが、あのギラギラとした生命力に満ちたオヤジが「最後の監督作品」と幕引きを宣言したのですから、最後まで見届けねばと足を運んだものの、その動機の9割以上は義務感、が正直なところである。
 などと強がるも、映画を観はじめて現在まで現役で活躍されるのは、新藤さん、山田洋次さん、東陽一さんとなった今、見逃すわけにはいかない思いがあった。
 ところが開けてみるとこれまた失礼ながら、思いのほかの素晴らしさに仰天されられる。

 近作ではカメラの動きに躍動感が感じられず、ドカッと腰を据えた演出が目につき、高齢のせいで動き回るのが難儀そうな印象があった。
 しかし本作では、観る者をうならすようなシーンが挿入されたり、動きを意識した演出がなされたことに、最後の作品への思いがあったのだろうか、その果てしなき向上心には「恐るべき99歳!」と完全に脱帽させられた。
 食べるものにも困窮する貧しい家に、ガラスのコップがあること自体おかしいのだが、そこに込められた「ガラスのコップで水を見せる必然性がある」との主張が、何の抵抗もなく受け入れられ「水の存在感」(1960年『裸の島』がここに生かされるか!?)から「あの水は生きている」とすら感じさせてしまう力強さには、往年のフィルムやスクリーンに魂をすり込むような生命力が感じられ、「監督の生きる力は衰えず」の気迫が伝わってくる。

 上に主な出演者を羅列したが、そうそうたるメンバーの誰もが見事としか言いようのない演技を披露しており、「新藤ラストムービー」に懸ける思いがヒシヒシと伝わってくる。
 特に大竹しのぶは、自分がもう演じられなくなるかのような熱演で、懸命な姿を新藤演出のフィルムに残したい一心で挑んだ様子がうかがえる。
 手の付けられない演技に込められた思いとは、その熱さゆえにしらけることもあるが、本作では監督とトヨエツが見事に受け止めたおかげで、観る者にはしっかりと「キモ・心」が伝わったことであろう。
 この先、大竹のような熱演を受け止められる監督はいるのだろうか? と、心配になるほど見事な「監督と女優の関係」であると思う。

 自ら幕引きを宣言し、高齢ゆえ観客もアンコールを求められない状況を整えた上で、晩年の傑作と言えるような作品を発表するところが、「新藤は最期まで衰えず」を証明しているようで、表現する言葉が見つからない……

 これが映画ですよね!
 ありがとうございました。

2011/07/20

大鹿村騒動記

2011.7.18

 企画・監督:阪本順治
 脚本:荒井晴彦
 出演:原田芳雄、大楠道代、岸部一徳、石橋蓮司


 原田芳雄が天上へと旅立っていった。

 自分が日本映画(いや映画自体)と向き合い始めた高校時代、そのスクリーンで躍動していたのは「薄汚く、粗暴で、欲望のままに暴れ回る」原田芳雄の姿であった(『竜馬暗殺』『祭りの準備』)。
 おっかなくて近づけないが、心根は隠せず(目元はとても優しい)、ユーモアに満ちたその姿が「ズドン!」と心に突き刺さったことは忘れようもない。
 それ以来、彼の追っかけでなくとも、マイナー(ATG映画等)な作品への関心が高まり、彼の出演作にも関心が向くこととなる。

 リアルタイムで観た、アングラ(マイナー)映画のひとつの頂点と思える『ツィゴイネルワイゼン』(鈴木清順監督:1980年)での、「そんな人物像は成立するものか?」と酔わされた衝撃は、今でも鮮明に思い浮かぶ。
 さまざまな格闘の積み重ねから、『父と暮せば』(黒木和雄監督:2004年)の演技には「人生の機微を演じる役者」の貫録が感じられ、「アウトロー」役出身者だから醸し出せる、年齢+αの包容力ある懐の深い演技を、これからも見せてもらいたいと期待していたのだが……

 数年前の大病から復帰したものの、趣味である鉄道関連のテーマでもTV「タモリ俱楽部」に出演がなくなったことから(以前は息子を連れて出演)、「残された時間は映画のために」の思いがうかがえる。

 本作の宣伝で「原田芳雄主演!」とうたっており、それを「なぜ? と感じた者は全員観に来い!」の告知と感じ、慌てて公開3日目に足を運んだ。
 一週間前のプレミア試写会に、憔悴(しょうすい)した体を無理押しして車いすで登壇した姿に息を呑み、応援したい思いで足を運んだが、その翌日悲報を耳にすることとなった。

 本作は原田芳雄の企画のようで、これまで現場を共にした監督たち(多くの方が旅立たれた)の中で、『どついたるねん』(1989年)から現場を共にしてきた阪本順治監督(現在最も信用できるとの意志ととらえる)に託される。
 その判断が、キャストの顔ぶれを見るだけで、原田や観客の期待を高める「現場」を生み出すこととなる。
 ATG映画時代からの盟友石橋蓮司、二人の再共演が観たかった『ツィゴイネルワイゼン』の大楠道代(大げさな照れのしぐさは年をとっても絵になる)、三國連太郎は近ごろ作品を吟味していそう、岸辺一徳はバッチリ! 等々。
 その見事さを考えると、監督は原田の覚悟まで心に秘めていたのではないか、と思えてくる。
 原田が満足できる現場を、仲間たちが囲んで「ともに楽しんだ」様子がうかがえる作品であり、本作を遺作にできた彼はある意味「幸せな役者」と言えるのかも知れない。

 本作のラストに原田芳雄が「アレ?」と空を見上げた瞬間、それは「天国からの声ではない!」と叫ぼうとした、わたしの心の声は届かなかった……

 ありがとうございました。

2011/05/02

トスカーナの贋作

2011.4.29

 監督・脚本:アッバス・キアロスタミ
 出演:ジュリエット・ビノシュ、ウィリアム・シメル

 キアロスタミの映画制作は、イラン国内では難しい状況にあることは耳にしていたが、本作は「表現の自由」を求めて別の国で撮影した最初の映画になる(フランス・イタリア映画)。
 イランはアジアに分類されるが、そんなイスラム圏から眺めたヨーロッパ圏の文化や人の営みの見え方なのだろうと、このけたたましい会話劇を受け止めた(イタリア語、フランス語、英語が交錯することから、ヨーロッパ全域が対象であると推測される)。

 原題は「Copie Conforme:認証された贋作 」で、映画という作り物の世界の中に虚構を作りたがる監督が好みそうな題材である。
 見知らぬ他人を演じていたとしても、他人が夫婦を演じていたとしても、元夫婦という設定であったとしても、愛の贋作は決して作ることはできない、とのテーマのようだ。
 贋作というものは、著名なオリジナル(贋作に対する本物)の持つ「知名度」を利用して利を得るための「手段」とされるが、どんな才能でも唯一実現不可能なのは「愛情」の模倣であり、もしその愛の贋作が完成したとしても、それはオリジナルになるのではあるまいか?
 トスカーナという地には、そんなロマンチックな記憶が刻まれていると、キアロスタミは読み取ったのかも知れない。

 虚実が混じり合う世の中でも、ふとしたしぐさから愛情が感じられ、互いに主張を曲げない言い争いがほほ笑ましく思えたりする、そんな行動こそがオリジナルであり、唯一の自己表現手段なのである。
 愚かとも思える自己表現を貫こうとするロマンチシズムこそが、世界を支える原動力となることを示している。
 終幕はいかようにも受け取れる幕切れだが、わたしは、結婚式でもヒゲを剃らない男が「ヒゲを剃った」ように見えたので、踏み出す決意で画面から消え、それを祝福する鐘の音が響いたと受け止めている。


 ご無沙汰のキアロスタミだが、諸事情から祖国での映画制作が困難となり、タルコフスキー同様に、国外で初めて映画を撮る場がイタリアであることに、この国の(異文化の才能を受け止める)包容力のようなものを改めて感じた気がする。

 ジュリエット・ビノシュのバイタリティというか、飽くなきチャレンジ精神には驚くばかりである。
 ヨーロッパ各国の作品にとどまらず、台湾の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画に出演するなど、精力的な活動を続けている。
 1990年当時脂が乗っていた2人、クシシュトフ・キェシロフスキ(ポーランドの監督)と彼女の映画制作を願ったもので、『トリコロール/青の愛』(1994年)実現には驚いたものだが、まさかイランのキアロスタミ映画に彼女が出るとは……
 取り巻く状況から生まれた企画で、彼女からラブコールしていたとしても、この組み合わせは想像できなかった。
 彼女は映画をよく観、愛する「映画ファン」と思われ、そのアンテナの敏感さとその行動力に敬服するし、本作の実現を感謝したい。

 フランスの女優としては、大御所カトリーヌ・ドヌーブに次ぐ存在になりつつあるのではないか(フランス女優には意外と中堅どころが少ない)。
 容姿やオーラでは大御所にかなわないにせよ、真摯に取り組む姿勢で幅を広げようと努力する姿には、女優の先の人間性を目指しているようにも感じられる(本作で、カンヌ国際映画祭 主演女優賞を受賞)。

 次は日本映画にも是非。渡辺謙とは似合いそうに思うのだが……

2011/01/05

ノルウェイの森

2010.12.29

 監督・脚本:トラン・アン・ユン
 撮影:李屏賓(リー・ピンビン)
 出演:松山ケンイチ、菊地凛子

 この文章は、原作ばかりか村上春樹の文章に接したことのない人格が記すことをご承知下さい。

 社会背景に「フリーセックス」(現在ではやりまくりという意味に使われているようで驚いたが、当時は婚前交渉を認めるべきというムーブメントだったと思う)が浸透していった1960年代、「愛≠セックス」という事態に直面し、子孫繁栄を目的としない精神の解放や高揚感をセックスに求めた若者たちの物語であり(悩み・苦しむ方がいることも確かです)、それは現代にも通じる性意識の乱れに対しての、都合のいい言い訳の起源とも受け止められる。
 日本人も欧米諸国の性意識を目指したのか、当時の団塊世代(時代)の映画には、セックスに特別な意味を持たせようとする作品が多く、下の世代には、それが「青春の門」なのか? という、大人世界への期待感を抱かせる影響力があった。
 結局は、ジュニア世代を生み出すための幻想が必要なだけで、その後は、同世代間での厳しい競争に勝ち抜くため社会活動に精力を注ぎ、日本の繁栄を生み出すことになる。
 団塊下のわれわれの世代は彼らを手本に世を乱してきたが、団塊ジュニア世代が親のお墨付きで「自由(放任)」に振る舞う現在の風紀の乱れは、お目付役不在の末世のようにも思える(とは言い過ぎか?)。

 「グリーン」や「水(湿度、濡れた感情)」のイメージが強く残るのは、監督トラン・アン・ユン(12歳でベトナム戦争を逃れるためフランスに移住)作風の特徴で、『青いパパイヤの香り』(1993年)『シクロ』(1995年)『夏至』(2000年)などでも効果的に使われ、監督名と共に印象に残る。
 監督の故郷であるベトナム(アジア)への強い思いが、この作品を「アジアの森」という世界観に結実させたと思うが、それは狙いではなくあるべき姿という気がしてくる。
 彼は熱帯〜亜熱帯地域に広がるアジアの湿度感というものを、日本人も持ち合わせることを理解しているようである。
 そんな湿度感は、男女を問わず瞳を潤させ(異性とのセックスを求めるサインを発し)、混沌とした状況に手を差しのべてくれると見立てた相手と、交わろうと誘引させる「空気感」として描かれている。
 ここには心身の不全でその機能が果たせずに、心まで枯れ果ててしまうヒロインが存在するが、それを純愛と扱わず「心の混沌(時代のうねり)」とする姿勢に、原作者(演出)のメッセージが込められている。
 「グリーン」「水」という人間にとても密接な存在を、人の営みにシンクロさせようとする静かな画面(本作は少し騒がしかった気がする)には、常に気の抜けない時間が流れており、時にそれは観る者を映す水鏡のようでもある。

 可愛いという記憶のない(失礼)菊地凛子だが、本作のようにエキセントリックな役柄では不思議な魅力を発し、とても印象に残り驚かされた。

 撮影の李屏賓(リー・ピンビン:台湾)の名前を最近よく目にするが(『空気人形』 『トロッコ』←観たかった)、海外で活躍する日本人カメラマンの出現も期待したい。

 観終わった後も、頭の中で勝手にビートルズのタイトル曲がリフレインされるのは、曲? or 映画? どっちのせい? と思うも、それはトータルとして映画の力であるはずだが、作品の空気感だけが曲と共に余韻として残った気がするのは、映画の力が足りなかったのか?

 『ノルウェイの森』とは、ビートルズのアルバム(『ラバー・ソウル』:1965年)が発売された60年代の混沌とした時代背景を指し、登場人物たちがその時代に居場所を見いだせない様を、森の中でさまよう姿に例えるような見事なタイトルと受け止められる。
 ただし原題の『Norwegian Wood』は、Woodsという森を示すワードではなく、ノルウェー製の「家具」「木製品」が正しいとのこと。
 とすると、タイトルの誤訳的な勘違いが通じるのは日本だけとなるが、結果的に森の湿度感が伝わるので、受け止めやすかったのではあるまいか。
 ちなみにこの曲は、ジョンが浮気を告白した歌だそう。

 映画らしい作品だったので、監督の次回作も楽しみにしたい。